ベレニス
- 原題
- Bérénice
- 作者
- ジャン・ラシーヌ
- 成立
- 1670
- 国
- フランス
- 時代
- 17世紀
概要
1670年11月に初演された五幕の韻文悲劇である。
主題は別離だけである。ローマ皇帝ティトゥスは、パレスチナのユダヤ王国の女王ベレニスと五年のあいだ愛し合ってきた。父帝の死により即位したいま、結婚するつもりでいる。だがローマの法と世論は、皇帝が外国の王を妻にすることを許さない。ティトゥスはベレニスを帰らせる。
事件はこれだけである。殺人も自殺も陰謀もない。五幕を通じて、三人の人物が話すだけで進む。
ラシーヌは序文で、この点を自ら弁護した。悲劇に必要なのは血と死ではなく、堂々とした行動と、人物の情熱と、別離の悲哀を成り立たせる文体である、と書いている。
典拠は、ローマの歴史家スエトニウスの一行にある。ティトゥスはベレニスを、自分も相手も望まないまま、ローマから去らせた——という短い記述で、ラシーヌはこの一文だけから五幕を作った。
初演の一週間後、コルネイユが同じ題材の劇『ティトゥスとベレニス』を別の劇団で上演した。
同じ時期に同じ題材が二つ出た経緯については、当時から説があった。国王の義理の妹アンリエットが、二人の劇作家に同じ主題を与えて競わせたという話が流布したが、証拠はなく、現在は否定されている。どちらかが計画を聞きつけて追随した可能性が高い。
結果はラシーヌの側の成功に終わった。コルネイユの作は上演回数が伸びず、以後コルネイユは劇作の主導権を失っていく。この年を境に、フランス悲劇の中心はラシーヌに移った。
なお当時、ルイ十四世が若いころ、マザラン枢機卿の姪マリー・マンチーニと結ばれず、政略結婚を強いられた出来事があった。この作品と重ねて読む見方が当時からあるが、ラシーヌ自身は何も述べていない。
文学史における評価と影響
事件のない悲劇として、フランス古典劇の極北に置かれる。舞台に登場する人物は三人と侍従だけで、場所は控えの間から動かず、出来事は別れの決定だけである。
古典悲劇は三一致の規則——時、場所、筋を一つにまとめる——に従う。この作品はその規則を最も切り詰めた形で満たしている。削れるものをすべて削ったとき何が残るか、という問いに対する一つの答えとして扱われる。
心理の書き方も要にあたる。ティトゥスは義務を選ぶが、その選択に至る過程が三幕にわたって書かれる。決断は最初から済んでいるのに、口にできない。言えないまま人を介そうとし、それも失敗する。
ベレニスの立場も一貫している。ベレニスは相手を責めるが、最後に自分から身を引く。三人が死を選ぼうとする場面で、それを止めるのがベレニスである。
上演の難しさもよく指摘される。派手な場面がなく、長い台詞が続く。俳優の力量に大きく依存する作品として知られ、コメディ・フランセーズでは主役級の女優の到達点の一つとされている。
日本では上演の機会が少ない。フェードルやアンドロマックに比べて知られていないが、ラシーヌの技法が最も純粋に出た作品として評価されてきた。
あらすじ
ローマ、皇宮の一室。ティトゥスの部屋とベレニスの部屋のあいだにある控えの間で、全幕が進む。
アンティオコスはコンマゲネの王で、ベレニスを長く愛している。だが五年前にティトゥスとベレニスが結ばれてから、その気持ちを口にせずにいた。皇帝が即位したいま、この場を去ることを決め、最後に一度だけ気持ちを伝えようとする。
アンティオコスはベレニスに告げる。ベレニスは驚き、迷惑だと言い、二度と会わないと答える。
ベレニスは幸福の絶頂にいる。父帝ウェスパシアヌスが死に、ティトゥスが即位した。もう妨げるものはない。皇后になれると信じている。
ティトゥスは決断を済ませている。ローマは王政を倒して建てられた国であり、王を憎む。まして外国の女王を皇后にすることは、元老院も民衆も認めない。父帝の在世中でさえ問題になっていた。即位した以上、自分は自分の思いで動けない。
ティトゥスはベレニスに直接言えない。腹心のパウリヌスに気持ちを話し、次にアンティオコスを呼んで、ベレニスに伝える役を頼む。自分の口からは言えないからである。
アンティオコスはこの役を引き受ける。愛する相手に、別の男からの別れを伝えることになる。ベレニスはこれを聞いて激高し、アンティオコスが嘘をついていると責める。二度と顔を見せるなと言う。
ティトゥスとベレニスが向き合う。ベレニスは問い詰める。ローマが許さないなら、なぜ五年のあいだ黙っていたのか。なぜ希望を持たせたのか。ティトゥスは答えられない。愛していないのなら殺してくれと言われ、愛しているからこそ帰らせるのだと答える。
ベレニスは去ると告げ、部屋に閉じこもる。手紙を残す。
ティトゥスはその手紙を読み、ベレニスが自害するつもりだと察して部屋に踏み込む。ティトゥスは、あなたが死ぬなら自分も死ぬと言う。
アンティオコスが現れる。自分もこれ以上耐えられない、二人が死ぬなら自分も死ぬと言う。
ここでベレニスが止める。三人とも生きて、それぞれの務めに戻るべきだ、と述べる。自分は帰る。ティトゥスは皇帝として統治する。アンティオコスも自分の国へ帰る。
最後の一語はアンティオコスのもので、「ああ」とだけ言う。この一語で劇が終わる。