ブリタニキュス

原題
Britannicus
作者
ジャン・ラシーヌ
成立
1669
フランス
時代
17世紀

概要

1669年12月に初演された五幕の韻文悲劇である。ラシーヌの作品のうち、政治を正面から扱った唯一のものにあたる。

舞台は古代ローマ、ネロの治世の五年目である。当時ネロは二十一歳で、まだ善政を敷いていると評判だった。実権を握っていたのは母アグリッピナで、前皇帝クラウディウスを毒殺し、先妻の子ブリタニキュスを押しのけて、自分の子ネロを帝位に就けた人物である。

劇はその一日を扱う。ネロが義弟ブリタニキュスの恋人ジュニーを深夜に拉致したところから始まり、その日の夜、ブリタニキュスの毒殺で終わる。

ラシーヌは序文で、自分が描いたのは「生まれつつある怪物」だと書いた。すでに暴君であるネロではなく、暴君になる瞬間のネロを扱うという意味である。

ラシーヌはこの作品を二十九歳で発表した。前作アンドロマックが大きな成功を収めた後にあたる。

典拠はタキトゥス年代記である。ラシーヌはこのローマの歴史家を読み込んでおり、序文でも繰り返し言及している。ジュニーは実在の人物ユニア・カルウィナをもとにした架空の造形で、ウェスタの巫女になる結末も創作である。

初演の評判は芳しくなかった。批評家からは歴史の改変を批判された。とくにコルネイユの支持者たちが冷淡だったと伝えられる。ラシーヌは序文でこれらに詳細な反論を書いている。

上演を重ねるにつれて評価が上がった。伝えるところでは、国王ルイ十四世はこの作品を観た後、それまで宮廷のバレエで自ら踊っていたのをやめたという。若い王が舞台に立つことの危うさをこの劇が示していた、という説明が付く。ただしこの逸話の確度については議論がある。

文学史における評価と影響

権力が腐敗する瞬間を扱った点が中心にある。ネロはまだ暴君ではない。善政を敷き、助言者の声を聞き、母に従っている。それがこの一日で変わる。すでに悪である者ではなく、悪になる過程を書く。

母と子の闘争も要にあたる。アグリッピナはあらゆる罪を犯して息子を帝位に就けた。その恩を盾に支配を続けようとする。ネロが母を断ち切るのは憎悪からではなく、支配されることに耐えられないからである。その断絶が最初の殺人を生む。

二人の助言者という配置は、中世の道徳劇の型を踏まえている。ラシーヌはそれを心理の劇として書き直した。ネロがナルシスを選ぶのは、そそのかされたからではなく、そちらが自分の望みだったからである。

見られている場面の作りは、演劇史でよく取り上げられる。ジュニーは真意を口にできない。ネロが隠れて見ている。言葉と真意が引き裂かれ、その乖離を観客だけが知っている。古典悲劇は舞台上の行動が乏しいという制約を持つが、この場面はその制約を逆に利用している。

コルネイユとの対比も繰り返し論じられる。コルネイユの悲劇では、人物は意志によって自分を制する。ラシーヌの人物は情念に押し流される。ネロの恋も母への反発も、選ばれたものではなく、逃れられない力として働く。

あらすじ

ローマ、皇宮。夜が明けたところ。

アグリッピナが息子の部屋の前で待っている。以前は自由に入れた。いまは取り次ぎが要る。息子が自分から離れていくのを感じている。

前夜、事件が起きていた。ネロが兵を遣わし、ジュニーを宮中に連れて来させた。ジュニーは皇族の娘で、ブリタニキュスと結婚することになっていた。

アグリッピナはこの独断に憤る。相談がなかったこと自体が、支配の喪失を意味する。

ネロは腹心ナルシスに、夜のことを語る。松明の光の中、涙に濡れて連れて来られたジュニーを見た。それ以来、その姿が離れない。

ネロはジュニーに、ブリタニキュスを捨てて自分の妃になれと迫る。ジュニーは断る。そこでネロは条件を出す。これからブリタニキュスが来る。その前で冷たく振る舞い、別れを告げよ。従わなければブリタニキュスの命はない。そして自分は隠れて見ている。

ブリタニキュスが入ってくる。ジュニーはネロの視線の下で、冷淡に応じるほかない。目で真意を伝えようとするが届かない。ブリタニキュスは裏切られたと思って去る。

ネロの傍らには二人の助言者がいる。ブリュスは老いた廷臣で、徳と節度を説く。ナルシスはブリタニキュスの傅育者でありながら、ネロに通じている。

アグリッピナがネロと正面から対決する。自分がどれだけの手を使って息子を帝位に就けたかを、順に数え上げる。婚姻、陰謀、毒殺。ネロは聞き、いったん譲歩する。ブリタニキュスと和解し、ジュニーを返すと約束する。

アグリッピナは侍女に勝利を語る。だがそれが致命的だった。

母が勝ち誇るのを知ったネロは、支配を断ち切ることを決める。ナルシスが煽る。和解すれば、あなたは母の支配下に戻ることになる。

和解の宴が開かれる。その席でブリタニキュスは杯をあおって倒れる。

報せが届く。アグリッピナはネロに向かって罪をなじり、そして予言する。この殺人は始まりにすぎない。お前はいずれ母をも殺すだろう。歴史上、ネロは五年後に母を殺害する。

ジュニーは宮殿を逃れ、ウェスタの巫女として身を捧げる。ウェスタの巫女は国家の神事を担う神職で、手を出せば神への冒涜になる。ネロは追えない。

ネロは一人になる。ブリュスは、その様子に最悪の事態を恐れる、と述べて劇が閉じられる。

作者

登場する文学史