エステル

作者
ジャン・ラシーヌ
成立
1689
フランス
時代
17世紀

概要

旧約聖書に材をとり、王妃が同胞のユダヤ人を虐殺から救う物語である。

ラシーヌは、フェードルアンドロマックで燃えるような情念の悲劇を書き、フランス古典悲劇の頂点を極めた。だがその後、ラシーヌは、長く沈黙する。 そして晩年になって、宗教的な主題による、この『エステル』を書いた。

この作品は旧約聖書の「エステル記」に、もとづいている。舞台は古代ペルシア帝国。主人公エステルはユダヤ人の娘でありながら、その出自を隠して、ペルシア王アハシュエロスの王妃となっていた。

ペルシアの権勢を誇る大臣ハマンは、ユダヤ人を憎み、帝国内のすべてのユダヤ人を虐殺する陰謀を企てる。エステルの育ての親である、ユダヤ人モルデカイは、王妃エステルに同胞を救うよう、懇願する。

エステルは迷う。王妃といえども王にみだりに近づけば、死罪になりかねない。 だが彼女は、意を決して、王の前に進み出、自らが、ユダヤ人であることを明かし、同胞を救うよう、訴える。

信仰と勇気によって、王妃が、同胞を絶滅の危機から救う。この作品はフランスの良家の子女のための学校で上演するために書かれ、少女たちが演じた、敬虔な宗教劇にあたる。

文学史における評価と影響

ラシーヌの晩年の宗教劇であり、その悲劇作家としての円熟した最後の仕事の一つとされる。

この作品の背景にはラシーヌの劇作からの引退と信仰への回帰がある。ラシーヌはフェードルを最後に世俗の劇壇を離れ、敬虔なカトリック(ジャンセニスム)の信仰へと立ち返っていた。この『エステル』と、続くアタリーは、その信仰の時期に書かれた宗教劇である。

執筆の直接のきっかけは、依頼だった。ルイ十四世の側近、マントノン夫人が創設した、良家の子女のための学校(サン=シール)のために生徒が上演できる、健全な劇が、求められた。 ラシーヌは、その依頼に応じて、聖書に材をとった、この作品を書いた。

主題は信仰と神の摂理による、救済である。かつてのフェードルのような、破滅的な情念の悲劇とは、対照的である。ここでは敬虔なエステルの信仰と勇気が、神の助けによって、報われ、同胞が救われる。 罪と滅びではなく、信仰と救いが、主題となっている。

合唱(コロス)を用いた、独特の劇形式も、注目される。ギリシャ悲劇にならい、ユダヤの少女たちの合唱が、劇のあいだに詩篇のような歌をうたう。その清らかで荘厳な詩は、ラシーヌの円熟した詩才を示している。 情念の詩人が、晩年にたどり着いた、静かな信仰の世界を伝える作品にあたる。

あらすじ

古代ペルシア帝国。大王アハシュエロス(クセルクセス)の宮廷が、舞台である。

王には美しく、聡明な、王妃エステルがいた。だが王はそして宮廷の人々は、一つの重大な事実を知らなかった。エステルが実は迫害される少数民族である、ユダヤ人の娘だということを。彼女は育ての親である、ユダヤ人の長老モルデカイの勧めでその出自を固く、隠していたのである。

この帝国でいま、絶大な権勢を誇っていたのが、大臣ハマンである。ハマンは傲慢で野心に満ちた男だった。そのハマンはユダヤ人のモルデカイが、自分にひざまずいて、礼をしないことに激怒する。

そしてハマンはモルデカイ一人への憎しみをユダヤ民族全体への憎悪へとふくらませる。彼は王をあざむいて、帝国内のすべてのユダヤ人を皆殺しにする、という、恐るべき勅令を出させることに成功する。 虐殺の日が、定められる。

同胞に絶滅の危機が、迫っていることを知った、モルデカイは、ただ一人、王のそばにいる、王妃エステルに望みを託す。 彼は、エステルに王に訴えて、同胞を救うよう、懇願する。

だがエステルは恐れる。この宮廷の掟ではたとえ王妃であっても、王に召されずにみだりにその前に出れば、死罪に処せられる。 王に直訴することは、命がけだった。

それでもエステルは同胞を救うため、意を決する。 彼女は、断食して祈り、神に助けを求めたのち、王の前へと進み出る。

幸い、王は、エステルを迎え入れる。エステルは王に宴をもうける。そしてその席で彼女は、ついに自らがユダヤ人であることを明かす。 そして大臣ハマンが、自分の同胞をそして王妃である自分自身をも、滅ぼそうとしている、その陰謀を王に訴える。

真実を知った王は激怒する。ハマンの悪辣な陰謀は暴かれ、彼は、失脚し、処刑される。 そしてユダヤ人を皆殺しにするという勅令は、覆される。

信仰と勇気をもって、王の前に進み出た、一人の王妃。その命がけの訴えによって、絶滅の危機にあった同胞が、救われる。 神の摂理による救済を描いて、この敬虔な宗教劇は、幕を閉じる。

作者

登場する文学史