楚辞
- 作者
- 屈原
- 成立
- 前3世紀頃
- 国
- 中国
- 時代
- 古代
概要
戦国時代の楚——長江中流域を領した国——に生まれた韻文の集成である。中心にあるのは屈原の作とされる「離騒」で、そのほか「九歌」「天問」「九章」などを収める。屈原以後の作品も含み、現在の形は漢代に編纂された。
北方の詩経と対をなす。詩経が四言を基本とし、集団の歌謡から生まれたのに対し、楚辞は句が長く不定で、「兮」という語を句の間に挟む独特の調子を持つ。内容も、個人の感情を強く前面に出す。
主題は、志を得ないことへの嘆きである。忠誠を尽くしながら讒言によって遠ざけられた者の憤りと悲しみが繰り返し歌われる。同時に、神々や霊との交感、天上界の遍歴、香草と美人の比喩が多用され、幻想的な色彩が強い。
この香草と美人の用法が、後世の解釈を方向づけた。香草は高潔な人格を、美人は君主を指す比喩として読まれ、香草美人と呼ばれる伝統になる。
屈原は前340年頃から前278年頃の人とされる。楚の王族の一員で、懐王に仕えて信任を得たが、他の臣の讒言によって遠ざけられた。当時、楚は西の秦の圧迫を受けており、屈原は秦との同盟に反対したが容れられなかった。懐王は秦に赴いて抑留され、客死する。
追放された屈原は各地をさまよい、秦が楚の都郢を落としたことを知って、汨羅の淵に身を投げたと伝えられる。この最期の伝承が、この詩集の読み方を決めてきた。
伝記の主な典拠は『史記』の屈原伝である。ただしその記述には不明確な点が多く、屈原の実在を疑う説も20世紀に提出された。現在は実在を認める見方が主流だが、伝記の細部と作品の帰属には議論が残る。「離騒」以外の作品が屈原のものかどうかは、篇ごとに争いがある。
現在の『楚辞』は、2世紀の王逸が注を付した『楚辞章句』の形で伝わる。屈原の弟子とされる宋玉ほか、漢代の作者による作品も収められている。
端午の節句に粽を川に投じ、龍舟を競う行事は、屈原の入水に由来するという説明が広く行われている。ただしこの結びつきは後代に成立したものとみられる。
文学史における評価と影響
中国詩の二大源流の一つである。詩経が集団の歌から出て儒教の経典となったのに対し、楚辞は個人の感情の表出から出発した。以後の中国詩は、この二つの流れを合わせて展開する。
形式面では、句が長く不定であることから、漢代の賦という文体が生まれた。事物を列挙し、修辞を尽くして描写する韻文で、漢代の宮廷文学の中心になる。
主題の面では、志を得ない者の嘆きという型を確立した。不遇の士が自らを屈原になぞらえることは、以後二千年にわたる中国文学の常套になった。杜甫、李白、蘇軾をはじめ、多くの詩人がこの伝統に連なる。
香草美人の比喩体系も定着した。花や香草を徳の象徴とし、恋の言葉で君臣の関係を語る読み方は、詩の解釈の枠組みとして長く機能した。
作者像としての屈原も、独立して大きな意味を持つようになった。国を憂えて命を絶った忠臣という像は、時代ごとに読み替えられてきた。20世紀には、郭沫若が屈原を主人公とする戯曲を書き、抗日戦争期の愛国の象徴として提示している。
日本では訳が読める。難解な語が多く、注釈を要する。
内容
「離騒」は約370句からなる長篇である。題は「憂いに遭う」と解するのが通説で、他にも諸説ある。
冒頭で作者は自らの出自と誕生の日を述べ、優れた資質を持って生まれたことを語る。香草を身につけ、徳を修めるが、周囲の讒言によって君主から遠ざけられる。世の中は曲がっており、正しい者が用いられない。
そこから幻想的な遍歴が始まる。竜に車を引かせ、鳳凰を従えて天上へ昇り、天の門を叩くが門番は開けない。伝説上の美女たちに求婚を試みるが、いずれも成らない。占いと巫女に問い、国を去るよう勧められる。
竜車を駆って旅立つが、途上で故郷が見える。御者は嘆き、馬は進もうとしない。結局その地を離れられないことが示され、詩は終わる。
「九歌」は十一篇からなる。楚の地の祭祀の歌をもとにしたもので、東皇太一、雲中君、湘君、湘夫人、山鬼といった神々への呼びかけと、その霊との出会いと別れが歌われる。恋愛の情調が強く、神との交感が男女の逢瀬の形で表現される。「国殤」は戦死者を弔う歌で、他とは調子が異なる。
「天問」は特異な作品である。全篇が問いだけで構成される。天地はどう開かれたのか、太陽の運行は誰が定めたのか、伝説上の帝王の事績は本当か。約170の問いが並び、答えは記されない。神話と伝説についての古代の知識を伝える資料として重要視される。
「九章」は九篇からなる。追放の途上での心境を歌ったものが多く、「哀郢」は都を離れる悲しみを、「懐沙」は身を投げる直前の作とされる。