史記

作者
司馬遷
成立
前91頃
中国
時代
古代

概要

前91年前後に完成した歴史書である。全130巻、約52万6500字。伝説上の黄帝から、著者の同時代である前漢の武帝の治世までを扱う。

構成が新しかった。本紀(帝王の年代記)12巻、表(年表)10巻、書(制度・文化の分野別の記述)8巻、世家(諸侯の家の記録)30巻、列伝(個人の伝記)70巻。この五部構成を紀伝体と呼ぶ。

それ以前の中国の歴史書は、出来事を年ごとに並べる編年体だった。紀伝体は、人物と分野ごとに記述をまとめる方式で、一人の人物の生涯を通して読むことができる。以後の中国の正史はすべてこの型を踏襲した。

列伝の対象が広い。将軍、宰相、思想家だけでなく、刺客、遊侠、商人、占い師、道化、そして医者。身分の低い者の伝記が正史に含まれるのは、この書の特徴にあたる。

記述には著者の判断が明示される。各巻の末尾に「太史公曰く」として、著者の評が置かれる。

司馬遷は前145年頃の生まれ。父の司馬談は太史令——天文と暦と記録を司る官——であり、歴史書の編纂を志していた。父の死に際して事業を引き継ぐよう遺言され、後を継いで太史令となった。

若い頃に各地を旅している。伝説の地を訪ね、古老に話を聞き、遺跡を実見した。作中には、実際に訪れた場所についての記述がある。

執筆中に事件が起きる。前99年、匈奴との戦いで降伏した将軍李陵を、司馬遷が朝廷で弁護した。武帝の怒りを買い、死罪を宣告される。死刑を免れる方法は、多額の金を納めるか、宮刑——去勢——を受けるかしかなかった。 司馬遷は宮刑を選んだ。

その理由は、友人任安に宛てた手紙に記されている。この著作を完成させないまま死ぬことはできなかった、という趣旨である。手紙では、屈辱に耐えて生きる選択を語り、書き上げて名山に蔵し、後世の人に伝わればよいと述べる。個人的な屈辱と、著作の完成が直結した例として、この書簡は繰り返し読まれてきた。

完成後まもなく死去したとみられるが、没年は分かっていない。

本文は完全には伝わっていない。数巻が失われ、後人の補筆が入っている。

文学史における評価と影響

紀伝体を創始し、中国の正史の形式を決めた点が最も大きい。以後、王朝ごとに前王朝の歴史を編纂する制度が確立し、二十四史と呼ばれる正史群はすべてこの構成をとる。ただし後の正史が王朝の事業として編まれたのに対し、この書は個人の著作である。

歴史書でありながら、文学としての評価も高い。人物の造形、場面の描写、会話の使い方が優れており、多くの逸話が後世の詩、戯曲、小説の素材になった。四面楚歌、臥薪嘗胆、完璧、背水の陣、鶏鳴狗盗といった成語が、この書に由来する。

記述の姿勢も特筆される。当代の皇帝である武帝の治世を、批判を含む形で記した。天は善人に味方するのかという問いを立て、伯夷と叔斉が餓死し、盗跖が天寿を全うしたことを挙げて、「余は甚だ惑う」と記す箇所は、この著作の姿勢を示すものとして引かれ続けている。

後続の正史との対比もよく論じられる。次の正史である班固の『漢書』は、王朝の枠内で整った記述を行う。司馬遷の書に見られる、権力への批判、身分の低い者への関心、著者自身の感情の表出は、以後の正史では薄れていく。

日本への影響も大きい。古くから読まれ、江戸期には漢学の必読書だった。近代では、中島敦李陵で李陵と司馬遷を主題にしている。

日本語訳は複数あり、全訳のほか、列伝の選集が広く読まれている。

内容

本紀は、五帝から夏・殷・周・秦を経て、漢の高祖劉邦、呂太后、文帝、景帝、武帝までを扱う。項羽が本紀に立てられている点が注目される。帝位に就いていない人物を帝王の記録に入れたのは、実質的に天下を支配した期間があるという判断による。呂太后を本紀に入れたことも同様である。

世家には、春秋戦国の諸侯の家に加えて、孔子と陳勝が含まれる。孔子は諸侯ではないが、その教えが後世に及ぼした影響を理由に置かれた。陳勝は秦末に最初に蜂起した農民で、王朝を開いていない。格付けの基準を、身分ではなく歴史上の役割に置いている。

列伝には、著名な場面が多い。伯夷と叔斉が周の粟を食むことを拒んで餓死する話が巻頭に置かれ、正しい者が報われないことへの疑問が提出される。

刺客列伝では、荊軻が秦王の暗殺に向かう場面が語られる。易水のほとりでの見送り、地図に隠した匕首、失敗と死。管仲と鮑叔の友情、藺相如が璧を守る話、廉頗が荊を背負って詫びる話。項羽と劉邦の争いを描く記述では、鴻門の会、四面楚歌、垓下での別れが置かれる。

貨殖列伝は商人と経済を扱う。富を築く方法を論じ、利を求めることを人間の本性として肯定する。儒教の価値観からは異例の巻にあたる。

作者

登場する文学史