陶淵明

- 原綴
- 陶淵明
- 生没
- 365頃–427
- 出身
- 潯陽柴桑(現・江西省九江)
- 国
- 中国
- 時代
- 古代
生涯
365年頃、潯陽柴桑(現在の江西省九江)に生まれた。曽祖父の陶侃は東晋の大将軍を務めた人物だが、家はすでに没落していた。
二十九歳で初めて官に就いた。以後、貧しさのために出仕と辞職を繰り返す。仕える相手が次々に変わる乱世であり、政変と反乱が続いた時期にあたる。
405年、彭沢の県令となった。だがわずか八十余日で辞職する。郡から派遣された役人を、正装して迎えるように言われたとき、五斗米のために腰を折ることはできない、と言って印綬を解いたと伝えられる。この辞職に際して書かれたのが「帰去来辞」である。
以後、二度と官に就かなかった。故郷で農耕に従事し、詩を作って過ごす。生活は貧しく、飢えと火災に見舞われた記録がある。友人からの援助を受けつつ、朝廷からの再度の招聘は断り続けた。
427年、六十三歳で死去した。自ら生前に、自分の死を悼む詩と祭文を書いている。
作風
陶淵明の詩は、農耕の生活をそのまま素材にする。
当時の詩は、宮廷の場で技巧を競うものが主流だった。難しい典故を用い、対句を凝らし、装飾的な語彙で書く。陶淵明はそれをしない。畑を耕すこと、豆の苗が育たないこと、隣人と酒を飲むこと、鶏の声。日常の事柄が、平明な語で書かれる。
代表される一節が「飲酒」其五にある。人里に庵を結んでいるが車馬の騒がしさはない、なぜかと問えば心が遠ければ地は自ずと辺鄙になる、と答える。そして東の垣根のもとで菊を摘み、ふと南山を見る。この「悠然として南山を見る」の句は、中国の詩のなかで最も知られたものの一つになった。
隠逸を歌いながら、それを高潔さとして誇らない。畑仕事は下手で、収穫は乏しく、酒が飲めないことを嘆く。理想化されない自分が書かれる。
酒と菊が繰り返し現れる。二十首からなる「飲酒」の連作があり、菊は後世、この詩人を象徴する花になった。
「桃花源記」は散文である。漁師が迷い込んだ谷の奥に、秦の戦乱を避けて移り住んだ人々の村があった。彼らは外の世界の王朝の交代を知らない。漁師は戻ってから道を探すが、二度と見つからない。理想郷を意味する「桃源郷」の語は、ここに由来する。
自らの伝記を装った「五柳先生伝」も残している。名も字も分からない男が、家の前に五本の柳があるので五柳先生と呼ばれる、という体裁で、読書と飲酒と貧乏を淡々と記す。
作品
「帰去来辞」(405年)は、官を辞して帰郷する決意を歌った韻文である。さあ帰ろう、田園が荒れようとしているのになぜ帰らないのか、という書き出しで始まる。
「桃花源記」は散文で、詩「桃花源詩」を伴う。
「飲酒」二十首は代表的な連作である。
「帰園田居」五首は、田園に帰った後の生活を歌う。
「五柳先生伝」は自伝の体裁をとる短い散文である。
「挽歌詩」三首は、自分の葬送を歌ったものである。
日本語では詩文集の訳が複数ある。分量が多くないため、全体を通して読める。
文学史における立ち位置と影響
陶淵明は、隠逸詩人の祖とされる。官を捨てて田園に帰るという生き方の型が、この人物によって作られた。
生前の評価は高くない。当時の詩の基準からすると平淡すぎるとされ、六朝の詩評では上位に置かれなかった。評価が確立するのは唐代以降、とくに宋代である。蘇軾がこの詩人を極めて高く評価し、その詩の全篇に和した作品を作った。これによって地位が決定的になる。
「平淡」という美的な評価語が、この詩人を論じるために整備された。技巧を凝らさず、しかし深い、という価値基準が、以後の中国詩の一つの理想になっている。
李白、杜甫、白居易のいずれもが陶淵明に言及している。官職と隠逸のあいだで揺れる士大夫にとって、この人物は繰り返し参照される存在だった。
「桃源郷」は、東アジアの共通語になった。理想郷を表す言葉として、中国、日本、朝鮮半島で用いられている。
日本での受容も早い。奈良・平安期から読まれ、「帰去来辞」は漢文教育の定番になった。松尾芭蕉をはじめとする近世の文人が、この詩人の生き方を理想として言及している。夏目漱石の『草枕』にも「悠然として南山を見る」の句が引かれ、東洋的な境地の代表として置かれている。