呪われた詩人たち

原題
Les Poètes maudits
作者
ポール・ヴェルレーヌ
成立
1884
フランス
時代
19世紀

概要

無名の詩人を世間に紹介するための薄い本である。批評というより紹介で、ヴェルレーヌ自身が、私は批評家ではない、と断っている。各詩人について短い紹介と評を書き、あとは詩を大量に引用する。

初版で取り上げられたのは三人。トリスタン・コルビエールランボーマラルメ。1888年の増補版でさらに三人が加わり、そのうち一人は「哀れなレリヤン」と名乗ったヴェルレーヌ自身だった。自分の名の綴りを並べ替えた偽名である。

この本の重要性は、内容よりも結果にある。当時ランボーは詩を捨ててアフリカへ去っており、名を知る者はごくわずかだった。マラルメも一部の詩人にしか読まれていなかった。この本によって二人は初めて世に出る。

「呪われた詩人(ポエット・モーディ)」という語も、ここで定着した。社会に受け入れられず、不遇のうちに生き、それゆえに純粋である詩人。 この人物像は以後の文学に深く浸透していく。

書かれた時期、ヴェルレーヌ自身の生活は荒れていた。ブリュッセルでランボーを撃って投獄され、出獄後にカトリックへ回心し、教職を試みて破綻し、貧窮と飲酒のうちにあった。本はまず小さな雑誌に連載され、1884年に一冊にまとまった。部数は少なく、当初の反響も限られている。

文学史における評価と影響

文学史の流れを実際に変えた評論の一つにあたる。

最大の功績はランボーマラルメを世に出したことである。この本がなければ、二人の受容はまったく違う経過をたどっていた可能性が高い。とりわけランボーについては、詩の多くが散逸を免れたのもこの紹介の効果による。1886年に雑誌『ラ・ヴォーグ』がイリュミナシオンを掲載できたのは、この本が下地を作ったからだった。

ランボー本人はそれを知らないまま死んだ。アフリカで商人として働き、1891年に脚の腫瘍のため帰国してマルセイユで死去。三十七歳。自分がフランス詩の伝説になりつつあることに、ほとんど関心を持たなかった。

「呪われた詩人」という語の定着も大きい。不遇こそが純粋さの証しである、という考え方は、19世紀後半から20世紀にかけて繰り返し再生産された。

同時に、この人物像には批判もある。不遇と才能を結びつける観念は、しばしば神話化に傾く。 ランボーの受容——早熟の天才、詩の放棄、アフリカでの失踪——も、この枠組みの中で形作られた面がある。作品より生涯が先に語られる読み方を、この本が用意してしまった。

象徴派の形成にも寄与した。1880年代後半、若い詩人たちがヴェルレーヌ、マラルメ、ランボーを先駆として象徴派を名乗り始める。この本はその系譜を指し示す役割を果たした。

ヴェルレーヌ自身の姿勢も注目される。自分の生活を破壊した相手を、なお詩人として高く評価し、世に送り出した。 私的な恩讐と作品の評価を切り離したこの判断が、結果として文学史を動かした。

内容

トリスタン・コルビエールは、ブルターニュの詩人で、1875年に二十九歳で死んだ。生前、詩集はほとんど売れず、無名のまま終わっている。ヴェルレーヌはその皮肉と破格の韻律を高く評価した。この紹介によって、コルビエールは文学史に位置を得た。

ランボーの項がこの本の中心をなす。知り合った頃ランボーは十六、七だった、とヴェルレーヌは記す。そして記憶に頼ってその詩を引用する。「母音」「酔いどれ船」「盗まれた心」など。このとき、ヴェルレーヌはランボーの消息を知らない。 生きているのかどうかも分からないまま書いている。

マラルメの項では、その難解さと完成度が論じられる。ヴェルレーヌは、マラルメの詩が大衆に理解されないことを認めたうえで、それこそがこの詩の価値であると主張する。「海の微風」「窓」などが引用される。

増補版で加わった「哀れなレリヤン」の項は、ヴェルレーヌ自身についての記述である。自らも「呪われた詩人」の一人として数えた。

作者

登場する文学史