パンセ
- 原題
- Pensées
- 作者
- ブレーズ・パスカル
- 成立
- 1670
- 国
- フランス
- 時代
- 17世紀
概要
1670年に刊行された断章集である。パスカルが1662年に三十九歳で死去した八年後にあたる。
これは一冊の本として書かれたものではない。パスカルはキリスト教を弁護する大部の書物を構想しており、そのための覚え書きを紙片に書き溜めていた。断片の数は千に近い。
紙片の一部は、パスカル自身が主題ごとに束ねて紐で綴じていた。残りは分類されないまま残された。
パスカルの死後、遺族と知人が整理し、読める形に並べて刊行した。この最初の版は、内容を穏当にするための書き換えも行われている。
以後、断片をどう並べるかで版が分かれてきた。パスカル自身が束ねた順序を復元する試みが19世紀以降に進み、現在は複数の配列が併存している。読む版によって断章の番号が違う。
パスカルは1623年、クレルモンに生まれた。数学と物理で早くから業績があり、十六歳で円錐曲線の論文を書き、十九歳で計算機を製作した。真空をめぐる実験でも知られる。
1654年11月23日の夜、パスカルは強い宗教的な体験をした。その内容を書きつけた紙片を、以後、上着の裏に縫い込んで持ち歩いた。死後に発見されている。この紙片は「覚え書」と呼ばれる。
以後パスカルはパリ郊外のポール・ロワヤル修道院に近づく。ここはジャンセニスムの拠点で、人が救われるかどうかは神が決めるという厳しい立場をとっていた。パスカルの妹ジャクリーヌはこの修道院の修道女である。
1656年から翌年にかけて、パスカルはプロヴァンシアルを匿名で発表し、イエズス会の道徳論を攻撃した。この論争の後、キリスト教を弁護する書物の構想に取りかかる。
だが健康が悪化した。パスカルは若いころから病弱で、痛みに悩まされ続けた。書物は完成せず、1662年に死去する。
文学史における評価と影響
断片であることが、この本の受容を決めてきた。完成した論証ではないため、読者は断章を自分で結びつけて読む。この不完全さが、かえって多様な読みを可能にした。
散文としての評価も高い。パスカルはプロヴァンシアルで、難しい内容を短い文と平明な語で書く方法を確立した。この本の断章も同じ文体で、警句として単独で引用できる文が多い。
気晴らしの分析は、後の思想に繰り返し引かれてきた。人が忙しくしているのは、目的があるからではなく、静止すると自分の状態が見えてしまうからだ、という見方である。
賭けの議論は、確率論を意思決定に応用した早い例として、数学や経済学の側からも扱われる。ただし、この議論が信仰の問題に適しているかについては批判が多い。得失の計算で選ばれた信仰は信仰なのか、という反論が古くからある。
モンテーニュとの関係も論じられる。パスカルはエセーを熟読しており、断章の随所でモンテーニュを批判している。だが人間の惨めさを列挙する方法そのものは、モンテーニュから受け継いだものにあたる。批判しながら使う、という関係になっている。
20世紀にはヴァレリーやシオランがこの本を論じた。日本では明治期から読まれ、小林秀雄がパスカル論を書いている。
内容
構想の骨格は、二部構成だったとみられる。神なしの人間の惨めさを示す部分と、神とともにある人間の幸福を示す部分である。
人間の条件を扱う断章が多い。
パスカルは、人間が自分の状態を直視できないことを繰り返し書く。人は死と不幸を考えずに済ませるために、狩り、賭け事、戦争、社交に打ち込む。これを気晴らしと呼ぶ。部屋にじっとしていられないことから、あらゆる不幸が来る、と書かれる。
想像力についての断章もある。想像は理性を欺く。裁判官の法服、医者の白衣、将軍の飾りは、中身とは関係なく人を従わせる。
「考える葦」の断章がよく知られる。人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。だが考える葦である。宇宙が人間を押し潰すとき、宇宙は自分が押し潰していることを知らない。人間はそれを知っている。ここに人間の尊厳がある、という趣旨で書かれる。
二つの無限の断章では、人間の位置が示される。宇宙の無限の大きさと、微小なものの無限の小ささのあいだに、人間は置かれている。どちらの端も理解できない。
「賭け」の断章が最もよく議論される。
神が存在するかどうかは、理性では決められない。ではどうするか。パスカルは、これを賭けとして扱う。神が存在するほうに賭けて、実際に存在すれば無限の利得を得る。存在しなければ失うものはほとんどない。逆に賭ければ、当たっても得るものはなく、外れれば無限を失う。したがって存在するほうに賭けるべきだ、と論じる。
これは信仰の証明ではない。信じられない者に、どう振る舞えば信じるに至るかを示す議論として置かれている。パスカルは続けて、まず儀式に従い、習慣を作れ、と書く。理屈で信じるのではなく、体から入れという勧めである。
心情の秩序も繰り返し扱われる。心には理性の知らない理由がある、という一句がここに出る。神を知るのは理性ではなく心である、というのがパスカルの立場になる。