中島敦

原綴
Nakajima Atsushi
生没
1909–1942
出身
東京市四谷区(現・東京都新宿区)
日本
時代
近代

生涯

1909年、東京に生まれた。漢学者の家系で、祖父も父も漢学を修めている。父は漢文の教師だった。この家庭環境が、作品の土台にある漢文の素養を作った。

父の赴任に伴い、少年期を朝鮮(当時の日本統治下)で過ごした。東京帝国大学で国文学を学び、卒業後は横浜高等女学校の教師になる。教職のかたわら小説を書いたが、生前は世に出なかった。

幼少期から喘息に苦しんだ。療養を兼ねて、1941年、パラオの南洋庁に教科書編集の職を得て赴任する。だが現地の気候は体に合わず、健康はかえって悪化した。翌1942年に帰国する。

同じ1942年、山月記文字禍が雑誌に発表され、ようやく評価が始まった。だが喘息の悪化により、同年12月、33歳で死去する。作家として認められてから、1年もなかった。代表作の多くは死の前後に発表されている。

作風

中島は、中国の古典を素材にして、近代人の自意識を書いた。山月記(1942年)は唐代の説話『人虎伝』を下敷きに、詩人を志した男が虎になる話である。

主題は自尊心と羞恥心の絡み合いにある。才能を信じきれず、しかし他人に交じることもできない。「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という言い方で、その心理が語られる。人と交わって己の未熟を知ることを恐れ、かといって才能を磨く努力もしない。その心が人を獣に変える、という論理である。この心理の分析が精密で、教科書に長く採録されてきた。

「言葉で表現すること」への疑いも繰り返し現れる。詩人になれなかった男(山月記)、文字そのものに魔力を見る書記(文字禍)、弓の技を極めて弓を忘れる名人(名人伝)。表現しようとする者が、その行為によって損なわれるという構図が共通している。

文体は漢語を多用した硬質なものである。読みは難しいが、四字熟語と対句のリズムが整っており、音読に向く。

作品

山月記(1942年)

代表作である。十数ページで読め、主題も明確で、入口に向く。

名人伝(1942年)

弓の名人が技を極めた末に弓そのものを忘れる話である。

文字禍(1942年)

古代アッシリアを舞台に、文字の霊が人に害をなすという奇想を扱う。

李陵(1943年、死後発表)

匈奴に降った漢の将軍李陵と、彼を弁護して宮刑に処された司馬遷を扱った作品で、中島の最も長い作品である。

文学史における立ち位置と影響

中島は、作家として活動した期間が極めて短い。作品が世に出たのは没年である1942年前後に集中しており、生前の評価が定まる前に死んでいる。

方法としては芥川龍之介と近い。どちらも古典を素材に、近代的な主題を流し込む。ただし芥川が日本の説話を多く用いたのに対し、中島は中国の古典に軸足を置いた。

戦時下に書かれた作品だが、時局的な要素がほとんどない。個人の内面の問題に集中しており、この点で同時代の多くの作品と性格を異にする。

山月記は現在も高校国語の教材として広く使われている。教育を通じて読まれ続けている作家であり、日本人の多くが「臆病な自尊心」という語をこの作品で知る。著作権保護期間は満了しており、青空文庫で全文を読める。

作品

登場する文学史