無頼派とは? 敗戦直後の退廃と反俗を生きた作家たち

発祥
日本
年代
1946–1950
主な国
日本

無頼派は、1945年の敗戦の直後に現れた一群の作家を指す。無頼とは、定職も定まった生き方も持たない、世間の枠から外れた者をいう。既成の道徳や、戦後の明るい建て直しの気分に背を向け、退廃と自己韜晦をあえて生きた作家たちである。江戸の戯作(げさく)——遊びと諧謔で書かれた通俗小説——の精神に通じるとして、新戯作派とも呼ばれた。

敗戦後の焼け跡から

出発点は、1945年の敗戦がもたらした価値の崩壊にある。戦争中に国が掲げた大義は一夜で崩れ、人々は何を信じればよいか分からなくなった。そこへ今度は、民主主義による明るい再建という新しい建前が上から降りてくる。

無頼派の作家は、その新しい建前にも乗らなかった。戦時中の軍国主義も、戦後の道徳的な立て直しも、どちらも同じように空々しいものと見た。理想を語る代わりに、堕落し、酒におぼれ、自分をあざけってみせる。その姿勢そのものが、うわべの正しさへの抵抗になっていた。

堕ちることから始める

この態度を最もはっきり言葉にしたのが、坂口安吾の評論『堕落論』(1946年)である。人間はもともと弱く、みっともないものだ。戦争中に美しく語られた忠義や純潔は嘘で、人はまず正直に堕ちるところまで堕ちるべきだ——安吾はそう論じた。堕落を否定するのではなく、そこにこそ本当の人間の出発点があるとする、逆説的な人間肯定である。この一篇は、焼け跡の時代の気分を代表する文章になった。

安吾は小説でも、既成の枠を壊す想像力を見せた。白痴では戦時下の混乱を、桜の森の満開の下では満開の桜の下にひそむ恐ろしさを描いている。理性や道徳の底が抜けた場所を、あえてのぞき込む書き方だった。

太宰治

無頼派を最もよく知られた存在にしたのは太宰治である。自分を語る一人称の告白体で、弱さ・恥・自己破壊をそのまま書いた。没落する旧華族の家を描いた斜陽(1947年)は、「斜陽族」という流行語を生むほど広く読まれる。翌年の人間失格(1948年)は、世間になじめない男の手記の形で、人間であることの資格を失っていく過程を書いた。

太宰は、作品と生き方が分かちがたい作家だった。何度も自殺を試み、人間失格を書き上げた1948年、玉川上水に入水して死んだ。三十八歳だった。破滅を演じるのではなく生きてしまう点に、この一派の凄みと危うさがある。

同じ流れには、大阪の庶民を軽妙に描いた織田作之助、古典の教養と皮肉を効かせた石川淳もいた。いずれも既成の文学の枠に収まらない、反俗の書き手である。

文学史における位置と影響

運動としての寿命は短い。中心にいた織田作之助は1947年に病死し、太宰治は1948年に自殺した。組織や綱領を持つ集団ではなく、敗戦直後という特殊な時期に、似た気分を共有した作家たちのゆるやかな呼び名にとどまる。

それでも文学史に残ったのは、この時期の精神を最も鋭く記録したからである。とくに太宰の作品は、時代が変わっても若い読者に読まれ続け、日本の近代文学のなかで最も愛読される書き手の一人になった。うわべの正しさを拒み、弱さや恥をそのまま差し出す姿勢は、戦後文学の一つの原点として位置づけられている。

この思潮の作家

日本