呉敬梓
- 原綴
- 呉敬梓
- 生没
- 1701–1754
- 出身
- 全椒(現・安徽省滁州)
- 国
- 中国
- 時代
- 元明清
生涯
1701年、安徽省全椒の名門に生まれた。曽祖父の代には一族から多くの進士を出し、官界で栄えた家柄である。
だが呉敬梓の代には家は傾いていた。父の死後、遺産をめぐる親族の争いを目の当たりにする。財産を惜しまず使い、放蕩によって家産を蕩尽したとも伝えられる。この没落と、それに伴う世間の態度の変化が、後の作品の背景にある。
科挙には一度、地方の試験に合格した。だが、その先の試験を受けることを、みずから放棄した。1736年、学識ある者を特別に登用する「博学鴻詞科」に推薦されたが、病と称してこれを辞退している。科挙による立身出世の道を、自分の意志で降りたのである。
三十代で南京へ移り、貧窮のうちに文人として暮らした。同じ境遇の文人たちと交わり、その世界を観察した。冬、寒さをしのぐために、夜通し城の外を歩き回ったという逸話が伝わる。
1754年、五十四歳で客死した。
作風
呉敬梓が描いたのは、科挙に取り憑かれた読書人たちである。
儒林外史は、明代を舞台に設定しながら、実際には清代の知識人社会を諷刺する。中心的な主人公を持たず、多数の人物が次々に登場しては退場していく。連作短篇を連ねたような構成をとる。
科挙が全体を貫く主題である。合格すれば富貴を得、落第すれば軽んじられる。この制度が、人々をどう歪めるかが描かれる。范進という人物は、五十を過ぎてようやく郷試に合格するが、その報せを聞いた瞬間に狂喜のあまり発狂する。この場面は、科挙が人の一生を支配することの異常さを、笑いのなかで突きつける。
諷刺の方法は、誇張よりも、淡々とした描写にある。人物の言動を、論評を加えずにそのまま書く。すると、その滑稽さと醜さが自ずと露わになる。偽の名士、金に群がる文人、体面だけを気にする役人。彼らの振る舞いが、批判の言葉なしに提示される。
一方、作者が理想とする人物も配される。科挙に背を向け、礼と楽を重んじ、名利を求めない文人たち。彼らは物語のなかで敬意をもって描かれる。呉敬梓自身の理想が、そこに投影されている。だが、その理想もまた、現実のなかでは力を持たず、静かに消えていく。
言葉は白話である。当時の口語による、簡潔で的確な文章で書かれている。
作品
唯一の代表作である。五十六回からなる(五十五回とする説もある)。生前は写本で流通し、刊行は死後である。
多数の挿話からなるため、全体を貫く筋はない。范進の発狂、厳監生の吝嗇(死の間際、灯心が二本点いているのを気にして死ねない場面が有名)、偽名士たちの集まりなど、独立した場面が連なる。
呉敬梓には詩文集『文木山房集』もある。
日本語では『儒林外史』の訳がある。挿話ごとに独立しているため、途中から読んでも困らない。
文学史における立ち位置と影響
儒林外史は、中国の諷刺小説を確立した作品とされる。それ以前にも諷刺的な要素を含む小説はあったが、社会の一つの層(読書人)を対象に、その全体を系統的に諷刺した長編は、この作品が最初にあたる。
科挙制度への批判という点で、思想史的にも意味を持つ。千年以上続いた官吏登用の仕組みが、人間をどう歪めるかを、内側から描いた。制度そのものを否定するのではなく、それに群がる人々の姿を通じて、その害を示す方法をとっている。
魯迅は『中国小説史略』で、この作品を高く評価した。中国に本格的な諷刺小説が現れたのは『儒林外史』からだ、と位置づけている。魯迅自身の諷刺の方法——阿Q正伝における、誇張せず淡々と人物の愚昧を描く手つき——は、この系譜に連なる。
近代以降、科挙批判の書として繰り返し読まれた。清末に科挙が廃止される過程で、その弊害を告発した先駆的な作品として評価されている。
諷刺の手法は、後の中国文学に影響した。論評を加えず、描写だけで対象を批判するという方法は、老舎らにも受け継がれている。
日本での受容は、他の白話小説に比べると遅かった。前提として科挙制度の知識を要することが一因である。それでも訳と研究は蓄積され、中国の諷刺文学の代表として位置づけられている。