ワルラーム・シャラーモフ

原綴
Варлам Шаламов
生没
1907–1982
出身
ヴォログダ
ロシア
時代
ソヴィエト期

生涯

1907年、ロシア北部ヴォログダの聖職者の家に生まれた。

若くして、反スターリンの立場から、政治活動に加わった。1929年、非合法の文書を配布したとして、最初の逮捕を受け、収容所へ送られる。三年の刑を終えて釈放された。

1937年、大粛清のなかで、再び逮捕された。今度送られたのは、コルイマである。シベリア北東の果て、極寒の金鉱地帯にある、最も過酷な収容所群だった。ここでシャラーモフは、想像を絶する苦難を生き延びる。飢え、酷寒、重労働、そして死。彼は、何度も死の淵に立たされた。刑期は延長を重ね、コルイマでの生活は、あわせて約十七年に及んだ。

1951年に釈放され、1953年、スターリンの死の年に、ようやくコルイマを離れることができた。1956年に名誉を回復された。

以後、モスクワで暮らしながら、コルイマの体験を書き続けた。それが『コルイマ物語』である。だが、この作品は、ソ連では発表できなかった。原稿は地下で回覧され、また国外へ渡って発表された。

長い収容所生活によって、シャラーモフの心身は、深く損なわれていた。晩年は、視力と聴力を失い、病に苦しんだ。1982年、養護施設で、ほとんど孤立したまま、七十四歳で死去した。移送される際に肺炎にかかり、それが死因になったとされる。収容所での死を思わせる、過酷な最期だった。

作風

シャラーモフが書いたのは、収容所が人間に何をするか、である。

その認識は、極限まで暗い。収容所は、人間を鍛えも、高めもしない。ただ、破壊する。飢えと寒さと労働は、人間から、あらゆる人間的なものを剥ぎ取っていく。友情も、愛も、道徳も、尊厳も。残るのは、生き延びようとする、動物的な欲求だけである。

『コルイマ物語』は、この認識を、短い断章の積み重ねによって描く。一つ一つの物語は短く、簡潔で、抑制されている。悲惨を、声高に叫ばない。ただ、収容所で起きた出来事を、事実として、淡々と記す。この抑制された文体が、かえって、その内容の恐ろしさを際立たせる。

彼が描くのは、極限状況における、細部である。凍った死体、盗まれるパン、労働を逃れるための自傷、無関心のなかでの死。人間の尊厳が、いかにたやすく崩れるか。飢えた囚人にとって、他人の死は、その配給を得る機会でしかない。こうした事実が、感傷を排して書かれる。

シャラーモフは、この体験から、何の教訓も引き出そうとしない。収容所は、人間に、いかなる肯定的なものももたらさない。そこで得られる知識は、知らないほうがよかった知識である。彼は、収容所の経験を、無意味で、不必要なものだと、はっきり述べる。

詩人でもあった。収容所のなかでも、記憶のなかで詩を作り続けた。その詩は、散文とは別の抒情的な世界を持つ。

作品

『コルイマ物語』

代表作である。コルイマの収容所での体験を描いた、短篇の連作にあたる。1954年から1973年にかけて書かれ、数百の物語からなる。ソ連での本格的な公刊は、1980年代後半である。

『コルイマ・ノート』などの詩集も残している。

日本語では『コルイマ物語』の訳がある。

文学史における立ち位置と影響

シャラーモフは、収容所文学の最も過酷な証言者とされる。

同じ収容所を書いたソルジェニーツィンとは、しばしば対比される。この対比は、極限状況における人間をめぐる、二つの根本的に異なる立場を示す。ソルジェニーツィンが、収容所のなかにも、人間の尊厳と、道徳的な成長の可能性を見出したのに対し、シャラーモフは、それを完全に否定する。収容所は、人間を高めることなく、ただ破壊する、と。シャラーモフは、ソルジェニーツィンの作品を、収容所を美化するものとして、批判的に見ていた。二人は、共同の仕事を提案されながら、この認識の違いから、決別している。

ホロコーストを書いたプリーモ・レーヴィとも、並べて論じられる。レーヴィが、記述し、理解し、伝えることに意味を見出したのに対し、シャラーモフは、伝えることの意味さえ疑う。この三者——ソルジェニーツィン、レーヴィ、シャラーモフ——の比較は、証言文学がどうあり得るかをめぐる、中心的な議論を形作っている。

文体の面でも、独自の達成がある。極限の内容を、極度に抑制された短い散文で描くという方法は、証言文学の一つの到達点とされる。声高な告発ではなく、事実の断片の積み重ねによって、かえって強く迫る。

その死後、評価は高まり続けている。20世紀の国家による暴力を証言した文学のなかで、最も妥協のない作品として、読み直されている。

日本での受容は、ソルジェニーツィンレーヴィとの比較のなかで進んだ。極限の証言として読まれている。

登場する文学史