サルトゥイコフ=シチェドリン
- 原綴
- Михаил Салтыков-Щедрин
- 生没
- 1826–1889
- 出身
- スパス=ウゴル(ロシア中部・トヴェリ県)
- 国
- ロシア
- 時代
- 黄金時代
生涯
1826年、トヴェリ県の地主の家に生まれた。本名はミハイル・サルトゥイコフで、シチェドリンは筆名にあたる。母は農奴を厳しく支配する冷酷な人物だったと伝えられる。この家庭の記憶が、後の作品の重要な素材になった。
エリート校を出て官吏になった。だが若い頃に書いた作品が当局に危険視され、地方へ左遷される。以後、県の副知事などを務めながら、ロシアの官僚制と地方社会の実態を内側から観察し続けた。役人として不正と戦う一方で、その機構そのものの不条理を知り尽くすことになる。この経験が諷刺に厚みを与えている。
官を辞した後は文筆に専念した。ネクラーソフの後を継いで雑誌『祖国雑記』の編集者になり、これを進歩的な文学と思想の拠点にする。1884年、この雑誌は当局によって閉鎖された。
厳しい検閲と戦いながら書き続けた。直接には言えないことを、諷刺と寓意と独特の言い回しで語る技術を磨いている。晩年は病に苦しみながらも社会批判を書き続けた。1889年に死去する。六十二歳だった。
作風
諷刺の対象は、ロシアの専制的な社会のあらゆる側面に及ぶ。官僚制の不条理、役人の腐敗と愚かさ、専横な地主、そしてそれに疑いも持たず従う民衆。これらを容赦なく戯画にした。
『ある町の歴史』がその極致にあたる。架空の町の歴代市長の歴史を書いた作品である。頭のなかに小さなオルゴールが仕込まれていて二語しか言えない市長、町を次々に無意味な事業で破壊する市長。荒唐無稽な話として書きながら、ロシアの専制政治の歴史そのものを痛烈に批判している。あまりに大胆な内容だが、架空の町の年代記という形をとることで検閲をかいくぐった。
『ゴロヴリョフ家の人々』は、諷刺の要素を残しながらもっと暗い。地主の一家が三代にわたって内側から崩れていく過程を描く。中心にいるのは「ユダ」とあだ名される次男である。うわべは敬虔で、優しい言葉を際限なく垂れ流す。その空疎な言葉が、家族を一人ずつ追い詰めて破滅させていく。誰も殴らず、誰も殺さず、ただ喋り続けるだけの人物である。ロシア文学における悪の造形として忘れがたいものとされる。
言葉の工夫が際立っている。検閲を逃れるため、婉曲で寓意的な言い回しを編み出した。これを「イソップの言葉」と呼ぶ。動物の寓話が本当は人間を指すのと同じように、表向き別のことを語りながら読者には本題が伝わる、という書き方である。作り出した諷刺的な造語のいくつかは、今日のロシア語に定着している。
作品
『ある町の歴史(История одного города)』(1870年)
架空の町の歴代市長の年代記という形をとる諷刺作品である。
『ゴロヴリョフ家の人々(Господа Головлёвы)』(1880年)
代表作である。地主一家の崩壊を描く。
『田舎日記(Пошехонская старина)』
農奴解放後の地方社会を諷刺的に描いた作品である。
『昔話(Сказки)』
動物などに仮託した寓話集で、晩年の諷刺の結晶にあたる。
日本語では『ゴロヴリョフ家の人々』が読める。
文学史における立ち位置と影響
19世紀ロシアの諷刺文学を代表する作家である。ゴーゴリが始めた諷刺の伝統を受け継ぎ、それを社会批判の武器へと発展させた。
官僚制と専制を内側から描いた点で独自の位置を占める。本人が高位の官僚だったため、その諷刺は外から眺めた批判ではなく、機構の内実を知る者の具体性を持つ。
『ゴロヴリョフ家の人々』の「ユダ」は、空疎な言葉によって人を殺す、という悪の類型を文学に加えた。うわべの敬虔さと、その下の空虚。ドストエフスキーが描く悪とはまた別の型として記憶されている。
検閲との戦いのなかで磨かれた「イソップの言葉」は、抑圧下で書くための一つの方法を示した。直接言えないことをどう読者に届けるか。この技法は後のソヴィエト期の作家にも受け継がれている。
ソ連時代には、専制と官僚制を批判した作家として高く評価された。だがその諷刺の刃はあらゆる抑圧的な権力に向いており、ソ連の体制にもそのまま当てはまる。この普遍性が、時代を超えて読み継がれる理由になっている。
日本での受容はゴーゴリらに比べると限られるが、ロシア諷刺文学の代表として紹介されている。