他人の顔
- 作者
- 安部公房
- 成立
- 1964
- 国
- 日本
- 時代
- 現代
概要
顔を失った男が、他人の顔をかぶって生きようとする話である。
主人公は科学者の男。実験の事故で、顔じゅうに醜いケロイドを負った。包帯で顔を覆って暮らすうちに、他人との関係も、妻との関係も崩れていく。顔がないと、人は人とつながれない。
そこで男は、自分の技術で精巧な仮面を作る。他人の顔の型を取り、皮膚そっくりの素材で、まったく別人の顔を作り上げる。その仮面をかぶれば、誰も男だと気づかない。
仮面をかぶった男は、別人として、自分の妻を誘惑する。妻が、夫でない男(実は夫)に応じるかどうかを試すのである。顔が変われば、妻は自分を裏切るのか。
妻は、その誘いに応じる。
男は勝ち誇るが、その後に妻の手紙を読んで打ちのめされる。妻は、最初から仮面の男が夫だと気づいていた。気づいたうえで、夫のばかげた企てに付き合っていた。顔を偽ったつもりの男のほうが、欺かれていた。
この小説は、手記の形をとる。男が妻に宛てて書いたノートである。顔とは、社会とつながる唯一の入口なのか、それとも取り替えのきく仮面にすぎないのか。 その問いが全体を貫く。
文学史における評価と影響
安部の「喪失三部作」の一つとされる。砂の女(土地の喪失)、この作品(顔の喪失)、そして『燃えつきた地図』(記憶の喪失)で、人が自分の輪郭を失う話を書き継いだ。
主題は、顔と自己の関係である。顔は、他人が自分を認識する入口であり、自分と社会をつなぐ通路にあたる。それを失うと、人は社会から切り離される。男は仮面で顔を取り戻そうとするが、仮面が別の人格を持ち始め、男自身を乗っ取っていく。
孤立の主題が、安部作品に一貫する。顔を失った男は、内面は変わらないのに、他人から異物として扱われる。この疎外の感覚は、現代社会で人と人がつながれないことの比喩として読まれた。
手記という形式も効いている。全編が、男が妻に読ませるために書いたノートである。読者は男の自己弁護を読まされ、最後に妻の反論でそれが崩される。 信用できない語り手の構造にあたる。
勅使河原宏が、砂の女に続いて映画化した(1966年)。仲代達矢が主演し、顔と仮面をめぐる映像実験として知られる。
一方、砂の女ほどの完成度はないとする評価もある。観念が前に出すぎ、寓話としての強度が落ちるという指摘である。それでも、顔をめぐる思考実験として繰り返し読まれてきた。
あらすじ
語り手の「私」は、高分子化学を研究する科学者である。液体空気の実験中に爆発が起き、顔面に無数のケロイド(引きつれた傷)を負った。 顔は、蛭が這うような醜い塊になった。
「私」は、顔じゅうを包帯で覆って暮らす。だが、包帯の顔は人を怯えさせる。職場でも街でも、人々の視線が「私」を異物として扱う。そして、妻との関係も冷えていく。妻は「私」を気遣うが、その気遣いがかえって二人を隔てる。夫婦のあいだから、肌の触れ合いが消える。
「私」は、顔を取り戻すことを決意する。自分の化学の知識を使い、他人の顔をそっくり再現した仮面を作る計画を立てる。
「私」は、ある男の顔——通りすがりの、ケロイドのある男に金を払って型を取らせてもらう——をもとに、皮膚の質感、髭、皺まで再現した仮面を完成させる。それをかぶると、鏡の中に、まったくの別人がいた。
仮面をかぶった「私」は、アパートを別に借り、別人として生活を始める。そして、ある企てを実行する。別人の顔で、自分の妻に近づき、誘惑するのである。顔が変われば、妻は貞節を破るのか。それを確かめたい。
「私」は、街で妻に「偶然」出会い、言葉を交わし、次第に親密になる。妻は、この見知らぬ男に心を開いていく。
やがて二人は結ばれる。妻は、夫ではない男(実は夫)に身を任せた。
「私」は勝ち誇る。やはり顔さえ変えれば、人は裏切る。妻の貞節など、その程度のものだった。
だが、家に戻った「私」は、妻が残した手紙を見つける。
手紙には、こう書かれていた。私は、あなたが仮面をかぶっていることに、最初から気づいていました。あの見知らぬ男が、あなただと分かっていました。 それなのに、あなたは私を試そうとした。私は、そのばかげた芝居に、悲しみながら付き合っていたのです。
欺いていたつもりの「私」が、実は最初から見抜かれていた。
妻は「私」のもとを去る。
一人残された「私」は、仮面をつけたまま、街をさまよう。顔を取り戻したはずが、自分が誰なのか、いっそう分からなくなっている。 このノートは、そのすべてを妻に読ませるために書かれたものだった、と明かされて、手記は閉じられる。