ねじまき鳥クロニクル

作者
村上春樹
成立
1994-1995
日本
時代
現代

概要

失踪した妻を探す男の日常が、戦争の暴力の記憶とつながっていく長篇である。

主人公岡田亨(トオル)は、仕事を辞めて主夫をしている、平凡な男である。ある日、飼い猫がいなくなり、続いて妻のクミコが失踪する。 亨は、消えた妻を探し始める。

探索の過程で、亨はさまざまな人物と出会う。謎めいた女、戦争の記憶を語る老人、妻の兄である冷酷な政治家。 日常の裏側に、別の世界が口を開いていく。

亨は、近所の空き家にある涸れた井戸の底に降りる。暗闇のなかで、亨は壁を「通り抜け」、別の次元へ入っていく。現実と非現実の境が溶けていく。

同時に語られるのが、ノモンハン事件(1939年、満蒙国境での日ソの戦い)の記憶である。ある老兵が、そこで見た凄惨な暴力——生きたまま皮を剝がれる拷問——を語る。遠い戦争の暴力が、現在の亨の物語に、深く食い込んでくる。

村上は、ノルウェイの森のような個人的な喪失から踏み出し、この作品で「歴史の暴力」と「悪」に正面から取り組んだ。 個人の内面と、二十世紀の暴力の記憶が、井戸を通じてつながる。

文学史における評価と影響

村上春樹の転換点とされる長篇である。それまでの村上は、都会に生きる個人の喪失感を、軽やかな文体で描いてきた。この作品で、村上は「歴史」と「暴力」へ踏み込んだ。

主題は、個人と歴史の暴力のつながりである。平凡な主夫の日常が、ノモンハンや満洲での戦争の記憶と結びつく。村上は、遠い過去の暴力が、現在を生きる個人の内側にまで及んでいることを描いた。 個人は歴史から無縁ではいられない。

「井戸」という装置が、この作品の核心にあたる。亨は井戸の底の暗闇で、意識の深層へ、そして別の世界へ降りていく。内面の暗部と、歴史の暗部が、そこで通じ合う。 村上作品に繰り返し現れる「地下」の系譜の、最も深い達成とされる。

悪の描写が新しかった。妻の兄・綿谷ノボルは、他人の魂を操り、汚す存在として描かれる。それまでの村上作品にはなかった、明確な「悪」の形象である。この関心は、後の『1Q84』へと引き継がれる。

アメリカでの評価が特に高い。英訳(『The Wind-Up Bird Chronicle』)が村上の国際的な地位を決定づけ、現代日本文学を代表する長篇として世界で読まれている。 読売文学賞を受賞した。

一方、構成の拡散を指摘する声もある。三部にわたる長い物語は、多くの糸を広げたまま、すべては回収されない。その未解決さも含めて、この作品の在り方だとされる。

あらすじ

岡田亨(トオル)は、法律事務所を辞め、妻のクミコの稼ぎで暮らす、三十代の主夫である。平穏で、少し退屈な日々を送っている。

ある日、二人が飼っていた猫が姿を消す。 クミコは、その猫を探すよう亨に頼む。猫探しをきっかけに、亨の日常に、奇妙な人物が次々に現れる。

電話で性的な言葉を語りかけてくる女。加納マルタ・クレタという、霊感を持つ姉妹。近所に住む、少女笠原メイ。そして、井戸に降りることを勧める、ノモンハンの生き残りの老兵間宮中尉

間宮は、亨に、満蒙国境での凄惨な体験を語る。任務中に捕らえられ、同僚がモンゴル兵に生きたまま皮を剝がれるのを見せられた。間宮自身は、井戸の底に投げ込まれ、そこで奇妙な光の啓示を受けた。その体験以来、間宮は「抜け殻」のように生きてきた。

やがて、クミコが失踪する。何の前触れもなく、妻は消える。後に、クミコの兄で、上昇志向の政治家綿谷ノボルから、クミコは別の男のもとにいる、離婚してほしい、と告げられる。

亨は、それを信じない。クミコは、綿谷ノボルの何らかの力によって、囚われているのではないか。 亨は、綿谷ノボルの中に、人の魂を汚す「悪」を感じ取る。

亨は、近所の空き家の涸れ井戸の底に降りる。暗闇と静寂のなかで、亨は思索し、そして壁を「通り抜けて」、ホテルの一室のような別の世界へ入る。そこには、囚われたクミコの気配がある。 井戸から戻ると、亨の頬には、原因不明の青いあざが現れている。

亨は、この「別の世界」を行き来しながら、綿谷ノボルの支配からクミコを取り戻そうとする。謎の女「ナツメグ」とその息子「シナモン」が、亨を助ける。彼らもまた、満洲での過去の暴力の記憶を背負っている。

満洲、ノモンハン、動物園での虐殺——過去のさまざまな暴力の記憶が、亨の現在の闘いに重なっていく。

最後、亨は「別の世界」の暗い部屋で、バットを手に、綿谷ノボルの分身と対決する。 亨がそれを打ち倒すのと呼応するように、現実世界の綿谷ノボルは脳卒中で倒れ、意識を失う。

クミコは、意識のない兄の生命維持装置を止め、罪を引き受ける。そして、いつか戻ると亨に告げる。

すべての謎が解けるわけではない。だが亨は、暴力の連鎖のなかから、妻をつなぎとめようとし続ける。 ねじを巻く鳥の声が、遠く響くなかで、物語は開かれたまま閉じられる。

作者

登場する文学史