最初の人間
- 原題
- Le Premier Homme
- 作者
- アルベール・カミュ
- 成立
- 1994
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
概要
1994年に刊行された未完の長篇小説である。カミュが1960年1月に自動車事故で死亡した際、現場に残された鞄から手書きの草稿が見つかった。それを娘のカトリーヌ・カミュが整理し、死の三十四年後に刊行した。
書かれているのは全体の構想の一部で、日本語訳で三百ページ前後になる。推敲は済んでおらず、判読できない語や、書きかけの文が残る。刊行版には、判読不能箇所の注記と、余白に書かれた覚え書きが併載されている。
内容は自伝的である。主人公ジャック・コルムリーは、アルジェリアの極貧の家に生まれ、フランスで成功した四十歳の男として登場する。生後まもなく戦死した父の墓を訪ね、そこから自分の少年時代をたどり直す。カミュ自身の経歴とほぼ重なる。
カミュは1913年、フランス領アルジェリアに生まれた。父リュシアンは翌1914年、第一次世界大戦のマルヌの戦いで負傷し、まもなく死亡した。カミュは一歳になっていない。母カトリーヌはスペイン系で、聴覚に障害があり、読み書きができなかった。一家はアルジェの労働者街で、祖母のもとに身を寄せて暮らした。
カミュは小学校教師ルイ・ジェルマンの働きかけで奨学金を得て、中学へ進んだ。作中のベルナール先生はこの人物にあたる。1957年にノーベル文学賞を受賞したとき、カミュはこの教師に礼状を書いている。
作品は1950年代末から書かれた。カミュはこれを自分の主要な作品にする構想を持っていた。1960年1月4日、出版者ミシェル・ガリマールの車に同乗してパリへ向かう途中、事故に遭って即死した。四十六歳だった。
遺族は長く刊行を控えた。未推敲の草稿を出すことへの躊躇があった。また当時はアルジェリア戦争の記憶が生々しく、カミュのアルジェリアをめぐる立場が論争の的になっていた事情もある。
文学史における評価と影響
カミュの他の小説と書き方が異なる。異邦人もペストも、状況を抽象化して置いた。この作品では、地名も人名も自分の経歴からほぼそのまま採られている。
母の書き方が高く評価されてきた。読み書きができず、耳が遠く、自分の過去も感情も語らない。ジャックは母を深く思っているが、二人のあいだに会話は成立しない。カミュはこの関係を、感情を述べる言葉を使わずに書いた。作品はこの母に捧げられる予定で、覚え書きに献辞の草案が残っている——これを決して読むことのできないあなたに、という趣旨の文である。
貧困の扱いも他と違う。悲惨として書かれない。金はなく、家に本は一冊もない。だが海があり日光がある。カミュは初期の随筆から、貧しさと豊かさが同じ場所にあるという感覚を繰り返し書いており、その源がここに示されている。
題名の意味は作中で示される。父を知らず、家に書物も家系の記憶もない。自分より前に誰もいない場所から始めるほかない人間、という意味である。
刊行時、フランスで大きな反響があった。カミュの評価がサルトルとの論争以来低調だった時期を経ての刊行で、再評価の契機の一つになった。
あらすじ
草稿は第一部と第二部の途中まである。
第一部「父の探索」。冒頭に、1913年、アルジェリアの農園で一人の子が生まれる場面が置かれる。馬車で運ばれてきた身重の女、灯りのない部屋、アラブ人の隣人の手助け。これがジャック・コルムリーの誕生である。
四十歳のジャックは、フランスのサン=ブリユーの墓地を訪れる。第一次世界大戦で戦死した父の墓を、母から場所を聞いて探しに来た。ジャックは父の顔を知らない。写真も残っていない。
墓碑の生没年を見てジャックは立ち止まる。父は二十九歳で死んでいた。墓の前に立つ自分は四十歳である。父より年上になってしまっている。この気づきがジャックを動かす。
ジャックはアルジェリアに渡り、母を訪ね、父を知る人を探す。だが誰も詳しいことを覚えていない。
そこから少年時代の記憶に入る。アルジェの労働者街ベルクールの電気も水道もない二間の住まい。祖母が家を仕切り、樽職人の伯父エルネストがいる。母カトリーヌは他人の家の掃除で家計を支えている。読み書きができず、耳が遠く、言葉数が極端に少ない。
祖母は厳格で、ジャックが遊びから帰るたびに、下着を確かめて海で泳いだかどうかを調べ、泳いでいれば鞭で打つ。金がないので、ジャックは夏休みに金物屋で働かされる。
貧しさと同時に、海と日光と少年たちの遊びが書かれる。無人の空き地でのサッカー、夏の海、映画館。祖母に連れられて行った活動写真では、字幕が読めない祖母のためにジャックが声に出して読む。
学校の記憶が中心に置かれる。小学校の教師ベルナール先生は、ジャックに奨学金の試験を受けさせようとする。祖母は反対する。上級学校に行けば四年間は稼げないからである。ベルナールは家を訪ねて祖母を説得する。ジャックは中学に進む。
第二部「息子あるいは最初の人間」は途中で切れる。中学での生活、労働者街の家と学校の世界の隔たり、伯父との関係が書かれかけている。
草稿はここで終わる。カミュの構想では、この後にアルジェリア戦争までを扱う予定だった。余白の覚え書きにその見取り図がある。