湯顕祖

原綴
湯顕祖
生没
1550–1616
出身
臨川(現・江西省撫州)
中国
時代
元明清

生涯

1550年、江西省臨川に生まれた。幼くして学才を知られたが、科挙の合格は遅れた。当時の宰相張居正が、自分の子を及第させるために有力な受験者を抱き込もうとしたが、湯顕祖はこれを拒んだため、張居正の存命中は合格できなかったと伝えられる。

1583年、三十四歳でようやく進士に及第した。官途に就いたが、まもなく朝政を批判する上奏を行い、地方へ左遷される。広東の徐聞、次いで浙江の遂昌の県令を務めた。地方官としては善政を敷いたとされる。

1598年、官を辞して故郷へ戻った。以後、著述に専念する。同じ年に牡丹亭を完成させた。

思想的には、当時の陽明学の左派、とくに李贄(李卓吾)の影響を受けている。人間の自然な情を肯定し、それを抑圧する礼教を批判する立場である。この思想が、作品の根底にある。

晩年は故郷で静かに過ごした。1616年、六十六歳で死去した。同じ年に、イギリスでシェイクスピアが、スペインでセルバンテスが死んでいる。

作風

湯顕祖が描いたのは、情の力である。

「情」——人間の自然な感情、とくに男女の愛——が、その中心にある。湯顕祖は牡丹亭の序文で、情が至れば、生者を死なせ、死者を生き返らせることもできる、という趣旨を述べた。情は生死を超える、という思想である。これは、礼教が情を抑えるべきものとした当時の道徳への正面からの対抗だった。

『牡丹亭』はこの思想を物語にする。良家の娘、杜麗娘は、庭園で夢を見る。夢のなかで見知らぬ書生と契りを結び、目覚めた後、その相手を思って恋い焦がれ、ついに死ぬ。彼女は自分の肖像を残し、庭に葬られる。三年後、柳夢梅という書生がその庭に宿り、肖像を見つけ、彼女の幽霊と結ばれる。麗娘は、書生が墓を暴くことで蘇生し、二人は正式に結ばれる。死んで生き返るほどの愛、というのが物語の核である。

形式は「伝奇」と呼ばれる、明代の長編の戯曲である。元曲の雑劇より規模が大きく、数十齣(場)にわたる。歌の部分は精緻な韻文で書かれ、その文学的な美しさが高く評価されてきた。

言葉が濃密である。とくに麗娘が庭園を見て自らの青春を嘆く「遊園驚夢」の場は、絢爛たる曲辞で知られ、独立して上演されるほど有名になった。

音律をめぐる論争もある。湯顕祖は、歌いやすさ(音律)より、言葉の意味と情の表現を優先した。これに対し、音律を重んじる沈璟の一派が批判し、明代の戯曲論の対立点になった。湯顕祖は、文学としての内容の側に立った。

作品

牡丹亭(『還魂記』)(1598年)が代表作である。全五十五齣からなる。

『紫釵記』『南柯記』『邯鄲記』とあわせて「臨川四夢」と呼ばれる。四作とも夢が重要な役割を果たすためである。『南柯記』と『邯鄲記』は、栄華が夢にすぎないという主題を扱い、仏教・道教的な色彩が濃い。

詩文集も残している。

日本語では『牡丹亭』の訳がある。全体が長大なため、「遊園驚夢」など有名な場を中心に読まれることが多い。

文学史における立ち位置と影響

湯顕祖は、明代の戯曲を代表する劇作家とされる。中国演劇史のなかで、元曲の関漢卿と並び称される。

牡丹亭は、中国の戯曲の最高峰の一つに数えられる。とくに崑曲(崑劇)という様式で上演され続け、今日も舞台にかけられている。青春版と呼ばれる若い俳優による上演が近年話題になるなど、生きた古典として受容されている。

情を礼教の上に置くという思想は、当時の社会に対する批判として機能した。恋愛を肯定し、それを抑圧する家父長制と礼教を相対化する視点は、後の紅楼夢にも通じる。実際、紅楼夢のなかで、主人公の林黛玉が『牡丹亭』の一節を聞いて心を動かす場面がある。

シェイクスピアと同年に死んだことから、東西の劇作家として並べて論じられることが多い。愛を主題とし、豊かな詩的言語を持ち、生死を超える情念を描いた点で、比較の対象になる。2016年、両者の没後四百年には、東西で記念行事が行われた。ただし、演劇の形式も思想の背景も大きく異なるため、安易な同一視には注意が要る。

日本での受容は、中国戯曲研究のなかで進んだ。崑曲の上演を通じても知られるようになっている。

作品

登場する文学史