関漢卿

原綴
関漢卿
生没
1220頃–1300頃
出身
大都(現・北京)ほか諸説
中国
時代
元明清

生涯

生没年も出身地も確定していない。1220年頃から1300年頃の人とされ、大都(現在の北京)の出とする説が有力だが、諸説ある。

元代は、モンゴルが中国を支配した時代である。科挙が長く停止され、漢人の知識人が官途を絶たれた。行き場を失った文人の一部が、都市の芝居小屋に集まり、雑劇の台本を書くようになる。関漢卿はその代表的な一人だった。

伝わる人物像は、市井に生きた文人である。自らを、煮ても柔らかくならず、蒸しても煮えず、叩いても潰れない銅の豌豆だ、と歌った文章が残る。役者や芸人と交わり、自らも舞台に立ったとされる。士大夫の文学とは異なる、都市の民衆の世界に身を置いた人物だった。

生涯の詳細はほとんど分かっていない。当時、雑劇の作者は正統な文学者とは見なされず、記録が残されなかったためである。

作風

関漢卿が書いたのは、市井の人々の物語である。

雑劇は、歌(曲)と台詞(白)と演技(科)を組み合わせた総合的な演劇である。四折(四幕)を基本とし、一人の主役が歌を担う。関漢卿はこの形式を駆使し、六十本を超える作品を書いたと伝えられる。現存するのは十数本である。

主人公に、社会の底辺の人々を据えた。とくに、権力や不正によって虐げられる女性を繰り返し描いた。娼妓、寡婦、召使い。彼女たちが理不尽な目に遭い、そして知恵と意志によって抵抗する。

代表作『竇娥冤』はその典型である。夫を亡くした若い女、竇娥が、無頼漢に言い寄られ、拒んだために、無実の殺人の罪を着せられる。腐敗した役人は拷問によって自白を強い、竇娥を処刑する。彼女は刑場で、自分が無実なら三つの奇跡が起きると誓う。血は白い布に飛び、六月に雪が降り、その地は三年の旱に見舞われる。誓いはすべて実現する。後に、彼女の父が官として戻り、冤罪を晴らす。

不正への怒りが作品を貫いている。腐敗した役人、法を弄ぶ権力者への批判が、被害者の側から書かれる。元代の司法の実態への告発という側面を持つ。

言葉は当時の口語である。士大夫の文語ではなく、都市の民衆が話す生きた言葉が用いられた。この生々しさが、雑劇の魅力になっている。

喜劇も書いた。『救風塵』は、だまされた妓女を、別の妓女が知恵を使って救い出す話である。機転と駆け引きによって悪人を出し抜くという、明るい筋立てをとる。

作品

『竇娥冤』(『感天動地竇娥冤』)が代表作である。無実の罪で処刑される寡婦の物語で、元曲の最高傑作の一つとされる。

『救風塵』

喜劇で、妓女同士の助け合いを描く。

『望江亭』も、女性の機知によって危機を切り抜ける話である。

『単刀会』

三国志の関羽を主人公にした歴史劇である。

日本語では『竇娥冤』の訳がある。元曲は歌の部分の訳が難しいため、注釈と解説の付いた版に意味がある。

文学史における立ち位置と影響

関漢卿は、元曲を代表する劇作家とされる。元代の雑劇は、中国文学のなかで演劇が本格的に花開いた最初の時代であり、その頂点にこの人物が置かれる。王実甫、白樸、馬致遠とともに「元曲四大家」に数えられる。

演劇の主題を、市井の民衆に開いた点で位置づけられる。虐げられる者、とくに女性を主人公に据え、その側から社会の不正を描いた。この視点は、後世の戯曲と小説に受け継がれた。

『竇娥冤』は、冤罪を晴らす物語の原型として、繰り返し翻案された。無実の者が処刑され、天が異変によってその無実を証し、後に名誉が回復されるという構図は、以後の中国の物語の一つの型になっている。

近代以降、関漢卿は民衆の側に立った作家として再評価された。1958年、世界平和評議会が関漢卿を記念する行事を行い、中国では国民的な劇作家として顕彰されている。田漢による戯曲『関漢卿』も書かれた。

一方、生涯がほとんど不明であることから、その人物像には後世の投影が含まれる。民衆的な反骨の作家という像が、どこまで史実に基づくかは慎重に扱う必要がある。

日本では、元曲への関心のなかで紹介されてきた。中国演劇史を語るうえで欠かせない存在として位置づけられている。

登場する文学史