ヨシフ・ブロツキー
- 原綴
- Иосиф Бродский
- 生没
- 1940–1996
- 出身
- レニングラード(現・ペテルブルク)
- 国
- ロシア
- 時代
- ソヴィエト期
生涯
1940年、レニングラード(現在のペテルブルク)のユダヤ人の家に生まれた。独ソ戦が始まる前年にあたる。幼少期を、ドイツ軍によるレニングラード包囲のなかで過ごした。
十五歳で学校をやめ、様々な職を転々とした。工場、病院の死体安置所、地質調査隊。正規の高等教育を受けず、独学で詩と外国語を学んだ。英語とポーランド語を身につけている。
早くから詩を書き、レニングラードの若い詩人たちのあいだで知られるようになった。晩年のアフマートワの知遇を得て、その薫陶を受ける。アフマートワは、この若い詩人の才能を、高く評価した。の伝統が、この詩人を通じて次の世代へ受け継がれた。
だが、公式の文学の枠に収まらないその活動は、当局に危険視された。1964年、ブロツキーは、「社会的な寄生」、いわゆる徒食の罪で裁判にかけられる。定職に就かず、詩を書いているというだけで、罪に問われたのである。裁判で、裁判官が「誰があなたを詩人と認めたのか」と問うと、ブロツキーは「誰も。誰が私を人類の一員と認めたのか」と答えた、という有名なやり取りが伝わる。五年の流刑を宣告され、北部の農村へ送られた。
この裁判は、国際的な抗議を呼んだ。アフマートワをはじめ、多くの文化人が擁護に回り、流刑は一年半で打ち切られた。
1972年、ブロツキーは、ソ連から追放された。以後、アメリカに定住する。大学で教えながら、ロシア語で詩を書き続け、同時に、英語でエッセイを書いた。二つの言語で活動する、亡命作家になった。
1987年、ノーベル文学賞を受賞する。1991年には、アメリカ議会図書館が任命する桂冠詩人に選ばれた。国を代表する詩人として詩の普及にあたる役職である。1996年、ニューヨークで、心臓病により、五十五歳で死去した。遺言により、ヴェネツィアに埋葬された。
作風
ブロツキーは、決まった数の音節と脚韻を守る古典的な詩形を、20世紀後半になっても手放さなかった。行の長さも韻も自由な詩が主流になっていた時代に、これは逆行に見える。だがその窮屈な形式のなかに、現代の入り組んだ思考を詰め込んだ。
主題は、時間、空間、言語、そして亡命である。ブロツキーにとって、詩を書くこととは、時間に抗うことだった。すべては過ぎ去り、消えていく。そのなかで、言語だけが、時間を超えて残る。詩人の使命は、言語を通じて、消えゆくものに、形を与えることである。この言語への信頼が、その詩の核にある。
亡命の経験も、深く刻まれている。祖国を追われ、故郷の言語から引き離された者の喪失と、それでも書き続ける意志。ヴェネツィアや、ローマといった、時間の堆積した都市への愛着も、繰り返し歌われる。
エッセイストとしても、卓越していた。英語で書かれたエッセイは、詩論、旅行記、自伝的な回想など、多岐にわたる。ドストエフスキー論、アフマートワ論、そして故郷レニングラードへの追想。明晰で、機知に富み、逆説に満ちたその散文は、詩とは別の達成をなしている。
言語への献身が、その全体を貫く。ブロツキーは、詩人は言語に仕える者だ、と考えた。詩人が言語を使うのではなく、言語が詩人を通じて語る。この言語を最上位に置く考え方が、その文学の基盤にある。
作品
『荒野の停止』(1970年)などの初期の詩集がある。
『美しい時代の終わりに』『ローマ悲歌』など、亡命後の詩集で、その円熟した世界を示した。
エッセイ集『一より小さいもの』(1986年)は、英語で書かれた散文集で、広く読まれた。故郷レニングラードを描いた「一部屋半」を含む。
『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』
ヴェネツィアへの愛を綴った散文である。
日本語では詩の抄訳と、エッセイの訳がある。
文学史における立ち位置と影響
ブロツキーは、20世紀後半のロシア詩を代表する詩人とされる。
銀の時代の伝統の最後の継承者という位置を占める。アフマートワを通じて、マンデリシタームらの伝統を受け継いだ。破壊された銀の時代の詩の文化を、20世紀の後半へ、そして亡命の地へと、運んだ。その系譜の最後の環にあたる。
二つの言語で活動した作家として、独自の位置にある。ロシア語で詩を書き、英語でエッセイを書いた。母語を追われながら、母語で詩を書き続け、同時に、新しい言語をも自分のものにした。この二言語のあいだに生きる姿は、20世紀の亡命作家の一つの典型である。ナボコフやコンラッドと並べて論じられることもある。
詩の裁判は、文学と国家の関係を象徴する事件になった。詩を書くこと自体が罪に問われるという、その不条理は、全体主義体制における芸術の運命を、鮮やかに示した。「誰があなたを詩人と認めたのか」という問いは、権力が芸術を裁こうとすることの愚かさを露わにした。
言語を最上位に置くその詩学は、後の詩人たちに影響を与えた。形式への献身と、言語への信頼は、自由詩が主流の時代にあって、古典的な詩の可能性を、改めて示すものだった。
日本での受容は、ノーベル賞受賞を機に進んだ。詩と、とりわけエッセイが、翻訳されている。