すみだ川

作者
永井荷風
成立
1909
日本
時代
近代

概要

役者になることを夢見る少年と、それを許さない周囲との、静かな葛藤の物語である。

主人公長吉は、下町に暮らす少年である。母は、息子に堅実な学問をさせ、立派な身分に就かせたいと願っている。 だが長吉の心は、勉強には向かない。

長吉は、幼なじみのお糸に、淡い恋心を抱いている。そのお糸が、芸者の修業に出ることになる。また、長吉自身も、芝居の世界に強く惹かれ、役者になりたいという思いを募らせていく。

だが、母は、役者になることを、断じて許さない。堅気の道を外れ、河原者(芸能者)の世界に入ることを、母は嫌う。 長吉の夢と、母の願いは、真っ向から対立する。

長吉を、ひそかに理解しているのが、母の弟である、俳諧師の松風庵蘿月である。この老人は、俗世の成功から降りて、風流に生きる人物で、長吉の芸術への憧れに、共感を寄せる。 だが、蘿月も、姉である長吉の母の意向に、正面から逆らうことはできない。

物語の終わり、思い悩んだ長吉は、雨のなか、病を得て、床に臥す。 江戸情緒あふれる隅田川のほとりを舞台に、少年の淡い恋と、叶わぬ夢の哀しみが、抒情的に描かれる。

文学史における評価と影響

永井荷風の初期を代表する中篇であり、その抒情的な作風を確立した作品にあたる。

主題は、芸術への憧れと、それを許さぬ現実の対立である。役者を志す長吉の夢は、堅実な身の立て方を望む母によって、阻まれる。芸能の世界に生きたいという純粋な願いが、世間の常識と身分意識の前に、行き場を失う。 荷風自身の、芸術と実生活のあいだの葛藤が、投影されている。

江戸情緒への愛着が、この作品を彩っている。舞台となる隅田川のほとり、向島の風景、季節の移ろい、下町の人情。荷風は、近代化のなかで失われつつあった、江戸以来の情緒を、こまやかな筆致で描き出した。 この愛惜の情は、後の濹東綺譚へと引き継がれる、荷風文学の一貫した主題である。

俳諧師・蘿月の造型が、印象深い。俗世の栄達を求めず、風流に生きるこの人物は、荷風の理想の一つの形にあたる。成功や身分より、風雅や芸を尊ぶ生き方が、母の現実主義と対比される。

流麗で抒情的な文体により、この作品は、荷風の初期の代表作として、また、消えゆく江戸の情緒を写した名品として、読み継がれている。荷風のフランス帰りの西洋的教養と、江戸文芸への愛着とが、美しく融合した一篇にあたる。

あらすじ

隅田川のほとりの下町。少年長吉は、寡婦である母と二人で暮らしている。

母は、常磐津の師匠をして、女手一つで長吉を育ててきた。その母の願いは、ただ一つ。長吉に、しっかりと学問をさせ、上の学校へ進ませ、堅実で立派な身分に就かせることである。そのために、母は、爪に火をともすようにして、月謝を工面している。

だが、長吉の心は、勉強には向かない。学校の勉強は退屈で、身が入らない。

長吉には、幼なじみのお糸という娘がいる。長吉は、このお糸に、淡い恋心を抱いている。 ところが、そのお糸が、芸者になるための修業に出ることが決まる。お糸が芸の世界へ入っていくことは、長吉の心を、いっそう芝居の世界へと傾かせる。

長吉は、芝居小屋に出入りするうちに、役者になりたいという夢を、抑えがたく募らせていく。華やかな舞台、拍手を浴びる役者たち。その世界に、長吉は、強く憧れる。

長吉の母には、弟がいる。俳諧師の松風庵蘿月である。蘿月は、世俗の成功には背を向け、俳諧をたしなみ、風流に、気ままに生きている。この叔父は、長吉の芸術への憧れを、ひそかに理解し、共感を寄せる。

長吉は、蘿月を頼りにし、自分の思いを打ち明ける。だが蘿月もまた、しっかり者の姉(長吉の母)の意向には、逆らいがたい。堅気の道を歩ませたい母と、芸の世界に憧れる長吉。 その板挟みのなかで、蘿月は、思い悩む。

母は、長吉が芝居にうつつを抜かしていることを知り、厳しく叱る。役者などという、河原者の世界に入ることは、断じて許さない。

夢を阻まれ、恋するお糸とも遠ざけられ、長吉の心は、行き場を失う。

そして、秋も深まったある日、思い悩む長吉は、冷たい雨に打たれて、熱を出し、病の床に臥してしまう。

高熱にうなされる長吉。その枕もとで、母は、初めて、息子の心の苦しみに思い至る。 叔父の蘿月もまた、甥の哀れな姿に、胸を痛める。

叶わぬ恋と、阻まれた夢を抱えて病む少年。その姿を、隅田川の秋の風景のなかに描いて、物語は、しめやかな余韻とともに閉じられる。

作者

登場する文学史