山月記
- 作者
- 中島敦
- 成立
- 1942
- 国
- 日本
- 時代
- 近代
概要
人が虎になる話である。十数ページの短篇にあたる。
主人公李徴は唐の時代の官吏で、若くして科挙に合格した秀才である。だが役人勤めを恥じ、詩人として名を残そうとして職を辞す。
詩は認められない。生活は苦しくなる。数年後、李徴は再び役人に戻る。かつて自分が見下していた同輩たちの下につく。その屈辱に耐えられなくなり、出張の途上で発狂して山に消える。
一年後、旧友の袁傪が山道を通る。虎が襲いかかり、寸前で身を翻して草むらに隠れる。 そして草の中から人間の声で、危うく友を傷つけるところだった、と言う。
残りは、その虎による独白である。
李徴は、自分がなぜ虎になったのかを語る。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心。自分には才能があるかもしれないと思いながら、それを世に問えば凡才だと分かってしまうのが怖い。だから師にも就かず、仲間とも交わらなかった。その心が自分を虎にした、と李徴は言う。
そして頼みごとをする。自分の詩を書き取ってほしい。三十篇ほどを暗誦する。次に、妻子の世話を頼む。この順序を、李徴は後で恥じる。 妻子より先に詩のことを言ったから、自分は虎になったのだ、と。
別れ際、李徴は自分の姿を見せる。そして二度と姿を見せないよう、この道を通らないでくれと頼む。
原典は唐代の伝奇「人虎伝」で、中島敦がそれを書き直したものにあたる。
文学史における評価と影響
戦後の日本で最も多く読まれた短篇の一つである。長く高校の国語教科書に採られてきた。
評価の中心は「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という一句にある。自分の才能を信じたいが、確かめるのが怖い。だから人を避け、避けたことをまた自分の誇りにする。この心の動きが、たった二語で名指されている。
原典との差が、中島の仕事を示している。唐代の「人虎伝」では、李徴が虎になったのは過去の悪行の報いとして説明される。人妻を焼き殺した罪があったと書かれている。中島はその因果を全部削った。 残ったのは、才能をめぐる内面の問題だけである。
詩を先に頼んだことを李徴自身が恥じる場面も、原典にはない。この一点で、この短篇は自己認識の物語になる。 虎になった理由を、外からの罰ではなく自分の性格として引き受ける。
文体も特徴的にあたる。漢文の調子を残した硬い文語脈で書かれ、四字熟語が多い。読みにくいはずだが、その硬さが虎の告白の格調を作っている。
中島敦は喘息の持病があり、この作品を発表した1942年の暮れに三十三歳で死んだ。作家として世に出ていた期間は一年に満たない。 才能を確かめる前に終わるかもしれない、という李徴の恐れが、作者の状況と重ねて読まれてきた。
あらすじ
李徴は隴西の人で、博学で才能があった。若くして科挙に合格し、官吏となる。だが性格が狷介で、下級役人として上役に頭を下げることに耐えられなかった。
数年で職を辞し、故郷に帰って詩作に専念する。役人として名を残すより、詩人として百年後に名を残そうとした。
だが詩は世に認められない。生活は次第に苦しくなる。妻子を養えなくなり、李徴はついに節を屈して、再び地方官の職を求める。
このとき、かつて同輩だった者たちはすでに高位に就いていた。李徴はその下命を受ける立場になる。 自分が鈍物として見下していた相手に従わねばならない。
その屈辱が李徴を苛む。一年後、公用で旅に出た李徴は、宿で夜中に顔色を変えて外へ飛び出し、闇の中へ消える。 捜索しても見つからなかった。
翌年。監察御史となった袁傪が、勅命で嶺南へ向かう途中、商於の地に泊まる。土地の役人が、この先の道には人食い虎が出るので夜明け前に通ってはならないと止める。袁傪は従者が多いのを頼んで、夜明け前に出発する。
林の中で、草むらから虎が躍り出る。 虎はあわや袁傪に躍りかかろうとして、身を翻して草むらに戻る。
そして草の中から、人間の声が繰り返し漏れる。危ないところだった、と言っている。 聞き覚えのある声だった。袁傪が名を呼ぶと、虎は自分が李徴だと答える。
李徴は自分の身に起きたことを語る。ある夜、誰かが自分を呼ぶ声を聞いて外へ出た。無我夢中で走るうちに、体が力に満ち、手で岩をつかんでいた。 谷川に映った姿は虎だった。
一日のうち数時間だけ、人間の心が戻る。その時間は自分が虎であることを思い出して悲しむ。だが、その時間は日を追って短くなっている。やがて完全に虎になる。
袁傪が、なぜこうなったのかと問う。李徴は答える。自分には臆病な自尊心と尊大な羞恥心があった。自分が珠でないことを恐れて磨かず、また半ば珠であることを信じて瓦に交わることもしなかった。その心が自分を虎にした。
李徴は二つを頼む。まず、自分の詩を書き取ってほしい。 数百篇のうち三十篇ほどを暗誦し、袁傪の従者が書き取る。
だが袁傪は、その詩に何かが足りないと感じる。一流の作品になるには、どこか微妙な点が欠けている。
李徴は即興の詩を吟じる。そして、次に妻子のことを頼む。 自分が死んだと伝え、飢え凍えることのないようにしてほしい。
言い終えて、李徴は自分を恥じる。本当は妻子のことを先に頼むべきだった。 詩のことを先に言ったから、自分はこんな獣になったのだ、と。
別れの際、李徴は袁傪に頼む。百歩先の丘に登ったら、こちらを振り返ってほしい。 いまの自分の姿を見せておきたい。二度とこの道を通らないようにするために。
袁傪が丘から振り返ると、草むらから虎が躍り出る。虎は白く光を失った月を仰いで二声三声吼え、また草むらに躍り入って、再び姿を見せなかった。