痴人の愛

作者
谷崎潤一郎
成立
1924-1925
日本
時代
近代

概要

男が自分で育てた女に、自分から支配されにいく話である。

主人公河合譲治は二十八歳の電気技師。真面目で、貯金があり、女遊びをしない。その譲治が、カフェーで働く十五歳のナオミを引き取る。

理由は、自分好みの女に育てるためである。学校へ通わせ、英語と音楽を習わせ、洋服を着せ、西洋風の暮らしをさせる。譲治はそれを「育てる」と呼び、記録をつけ、写真を撮り、身長を測る。

ナオミは譲治の思うようには育たない。勉強は身につかず、金遣いは荒くなり、遊び歩き、複数の男と関係を持つ。

そして譲治は、それを知りながら離れられない。怒り、追い出し、そしてまた迎え入れる。最後には条件をすべて呑む。ナオミを「友達」として扱い、外泊にも口を出さず、金だけを出す。

題の「痴人」は譲治のことである。語り手は譲治自身で、冒頭で、これから自分の愚かな記録を書くと断っている。恥として書きながら、その恥をどこか誇っている調子がある。

連載は1924年に始まったが、内容が風紀を乱すとして新聞連載が中断された。 場を雑誌に移して完結している。

文学史における評価と影響

谷崎前期を代表する長篇であり、その主題が最も分かりやすい形で出た作品にあたる。

主題は支配の逆転である。谷崎の小説では、男が女に仕えることが快楽になる。春琴抄の佐助が目を突いたのと、譲治がナオミの条件を呑むのは、同じ構造にある。ただしこちらには美化がない。 譲治はみっともなく、その滑稽さが前面に出る。

「ナオミズム」という語が流行した。洋装で、髪を短くし、自分の意志で遊ぶ若い女性が、この作品を境に「モダンガール」として語られるようになる。小説の人物名が社会現象の名前になった、数少ない例にあたる。

西洋への憧れの描き方も繰り返し論じられる。譲治がナオミに求めるのは、西洋の女優に似た顔と体つきである。ダンス、洋服、英語。当時の日本が西洋に対して抱いていた憧れと劣等感が、一人の男の性愛として書かれている。

関東大震災の翌年の作品という点も指摘される。震災で東京が壊れ、谷崎は関西へ移った。この作品は、震災前の東京の風俗を書きとめた記録としても読まれる。

なお谷崎はこの後、陰翳礼讃春琴抄で日本の古典へ傾斜していく。西洋崇拝を書いた本作と、暗さの美を説く後年とでは、向きが正反対にあたる。 その転回自体が、谷崎を論じる際の主題になっている。

あらすじ

河合譲治は二十八歳、電気会社の技師である。宇都宮の地主の家に生まれ、堅実に働き、貯金を持っている。女遊びをせず、周囲から君子と呼ばれている。

浅草のカフェーで働くナオミという少女に目を留める。十五歳。顔立ちが西洋の女優のメリー・ピクフォードに似ていると譲治は思う。名前が片仮名で書けることも気に入る。

譲治はナオミの家に話をつけ、引き取る。目的は、自分好みの女に育てて、いずれ妻にすることである。

大森に西洋風の家を借り、二人で暮らし始める。譲治はナオミを学校へ通わせ、英語と音楽を習わせる。 洋服を買い与え、体つきの記録をつけ、写真を撮る。

だが教育はうまくいかない。英語の教師からは覚えが悪いと言われる。音楽も続かない。ナオミが身につけたのは、洋装と社交と遊びだけだった。

数年が過ぎる。ナオミは美しくなり、譲治の手に余るようになる。ダンスホールに通い、友人を家に連れ込み、金を使う。

譲治は嫉妬に苦しむ。若い男たちとの関係を疑い、問い詰め、ナオミは笑って否定する。

やがて証拠が出る。ナオミは複数の男と関係を持っていた。 譲治は激怒し、家から追い出す。

追い出した後が、この小説の核心にあたる。譲治は仕事が手につかない。ナオミの残した服の匂いを嗅ぎ、写真を見て過ごす。探し回り、見つけ、頼み込む。

ナオミは戻る。だが条件を出す。夫婦ではなく友達として暮らすこと。外泊に干渉しないこと。金を出すこと。

譲治はすべて呑む。

以後、二人は横浜の西洋人向けの家に住む。ナオミは外国人と交際し、自由に出歩く。譲治は金を工面し、家を維持し、それを見ている。

譲治は最後に書く。自分たちの生活は世間から見れば馬鹿げているだろう。だが自分はナオミに惚れている。読んで愚かだと思う人は笑えばよい、と結ばれる。

作者

登場する文学史