テレーズ・ラカン

原題
Thérèse Raquin
作者
エミール・ゾラ
成立
1867
フランス
時代
19世紀

概要

1867年に刊行された長篇小説である。前年から雑誌に連載された。ゾラ二十七歳の作品で、後の連作「ルーゴン=マッカール叢書」に着手する前にあたる。

舞台はパリのポン=ヌフの通路。屋根で覆われた細い路地で、日が差さず、湿っている。そこにラカン夫人の小間物屋がある。

テレーズは伯母ラカン夫人に育てられ、病弱な従兄カミーユと結婚させられた。自分では何一つ選んでいない。表情を変えず、口数も少ない。

カミーユの旧友ローランが家に出入りするようになる。テレーズとローランは関係を持ち、やがてカミーユを舟遊びの最中に水に落として殺す。事故として処理される。

一年あまり後、周囲の勧めという形をとって二人は結婚する。ここから崩れていく。

ゾラは第二版の序文で、自分は魂を持つ人物ではなく気質を描いた、と書いた。テレーズを神経質、ローランを多血質と規定し、その組み合わせから起きることを記述したのだと説明している。

ゾラは当初、この筋を短篇として発表していた。それを長篇に書き直したのがこの作品にあたる。

刊行後、激しい非難を受けた。ある新聞はこれを「腐肉文学」と呼んだ。不道徳で、猥褻で、汚らわしいという批判である。

ゾラは翌年の第二版に序文を付けて反論した。そこで、自分は道徳家ではなく解剖学者であり、生きた身体に対して、外科医が死体に行うのと同じ分析をしたのだ、と述べている。テレーズとローランは魂を持たず、気質に支配された存在であって、その行動は血と神経によって決まる、とも書いた。

背景に当時の科学思想がある。実証主義、生理学、遺伝の研究。ゾラはとくに、テーヌの決定論——人間は人種・環境・時代によって決まるという説——から影響を受けている。

この方法は後に実験小説論で理論として整理される。

文学史における評価と影響

自然主義の出発点として扱われる。

独自性は罪の描き方にある。従来の文学では、殺人者を苛むのは良心だった。ドストエフスキー罪と罰がその代表にあたる。ゾラは良心を認めない。二人を壊すのは神経の消耗であり、身体の機能不全である。罪の意識という精神的なものは出てこない。

「気質」という規定も、この作品の鍵になる。神経質と多血質という古い分類を使い、その組み合わせから結果を導く。人間を化学反応のように扱う方法として提示された。

同時に、この方法には当初から批判がある。人間を生理に還元することは文学を貧しくするのではないか、という指摘である。またゾラ自身の実作が、理論に収まらない点も繰り返し言われてきた。この作品の緊迫感は、気質の研究という枠組みでは説明しきれない。

ラカン夫人の造形は、この作品で最も評価される部分にあたる。全身が麻痺し、口もきけず、目だけが生きている。真相を知りながら告げられない。この沈黙の視線が二人を追い詰める。この着想は後の文学で繰り返し使われた。

舞台の設定も自然主義の前提を示している。日の差さない湿った路地。環境が人間を決めるという考え方が、場所の選び方に現れている。

ゾラ自身が後にこれを戯曲化し、さらに映画やオペラにもなった。

あらすじ

テレーズは、アルジェリア人の母とフランス人の父のあいだに生まれ、幼くして伯母ラカン夫人に引き取られた。病弱な従兄カミーユと同じ部屋で、同じ薬を飲まされて育つ。二十一歳でカミーユと結婚する。

一家はパリに出て、ポン=ヌフの通路で小間物屋を開く。カミーユは鉄道会社に事務員の職を得る。木曜の夜には、警視のミショーら数人が集まってドミノをする。この集まりが毎週繰り返される。

ある日、カミーユが旧友ローランを連れてくる。もとは画家を志したが才能がなく、いまは下級の事務員である。体が大きく、粗野で、面倒を嫌う。

テレーズとローランは関係を持つ。ローランは職場を抜け出して昼に通う。二人のあいだにあるのは恋愛の言葉ではなく、抑えられていたものの噴出として書かれる。

やがて逢瀬が難しくなる。二人はカミーユを除くことを考える。

ある日曜、三人でセーヌ川に舟を出す。ローランがカミーユを水に落とす。カミーユは抵抗し、ローランの首に噛みつく。その歯形が残る。カミーユは溺れ死ぬ。

ローランは自分も落ちたふりをして助けを呼ぶ。事故として処理される。ローランはその後、モルグ——身元不明の遺体を公開する施設——に通い、カミーユの死体が上がるのを確認する。

一年あまり、二人は距離を置く。そして周囲に勧められる形をとって結婚する。

初夜から様子が変わる。二人は互いに触れられない。部屋にカミーユの姿が見える。ローランの首の歯形は癒えず、痛み続ける。テレーズがそこに触れようとすると、ローランは悲鳴を上げる。

ゾラはこれを幽霊として書かない。眠れず、震え、幻を見、痩せていく。神経の状態として記述される。

二人は互いを憎み始める。相手がいなければ自分は殺人者にならなかった、と考える。罵り合い、殴り合う。ローランは酒に逃げ、テレーズは街の男のもとへ行くようになる。

ラカン夫人はこのあいだに脳卒中で倒れ、全身が麻痺して口もきけなくなっている。目だけが動く。ある夜、争う二人の口から真相を聞く。息子を殺したのはこの二人だった。

ラカン夫人は動くことも話すこともできない。木曜の集まりで、指で文字を書こうとするが、途中で力尽きる。以後、夫人はただ二人を見つめ続ける。

ローランは毒を用意する。テレーズは刃物を隠す。互いに殺すつもりでいる。

最後の夜、二人は同時に相手の企みに気づく。そこで力が抜ける。二人は毒を分けて飲み、抱き合うように倒れて死ぬ。

ラカン夫人はその死体を、朝まで動かない目で見つめ続ける。

作者

登場する文学史