事件
- 作者
- アニー・エルノー
- 成立
- 2000
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
概要
中絶が違法だった時代に非合法の堕胎を経験した記憶を記録した作品である。
アニー・エルノーは、場所や歳月で自らの体験を感情を排した文体で記録してきた。この『事件』は、そのなかでも最も苛烈な体験の一つを扱った作品にあたる。
一九六〇年代のはじめ、大学生だったエルノーは、望まぬ妊娠をする。だが当時のフランスでは、中絶は、法律で固く禁じられ、犯罪だった。 医師は、誰も、助けてはくれない。周囲にも相談できない。
エルノーはたった一人でこの事態に立ち向かうしかなかった。彼女は危険な、非合法の堕胎の方法を探し求める。 そしてやみの堕胎師のもとを訪ね、器具を使った、危険で苦痛に満ちた処置を受ける。処置の後、彼女は、大量に出血し、命の危険にさらされる。
エルノーは四十年ちかく経ってから当時の日記も参照しながら、この体験を克明に書き記す。感傷や、非難を排し、あくまで事実として、その恐怖と苦痛と孤独を記録する。
女性が自分の体を自分で決められなかった時代のその理不尽な現実を一人の女性の身に起きた「事件」として、証言する作品である。
文学史における評価と影響
アニー・エルノーの代表作の一つであり、女性の身体と法と社会をめぐる、重要な証言とされる。
この作品の意義は中絶が違法だった時代の現実を当事者として記録した点にある。かつて、フランスでも、多くの国でも、中絶は、犯罪だった。そのため望まぬ妊娠をした女性は、危険な、非合法の堕胎にたった一人で頼らざるをえなかった。 エルノーは、その隠されてきた現実を自らの体験として、公にした。
エルノーの方法がここでも貫かれている。彼女はこの過酷な体験を感傷的にも、告発調にも、描かない。あくまで事実を克明に冷静に記録する。 その禁欲的な文体こそが、かえって体験の恐ろしさとその社会的な意味を鋭く伝える。
主題は女性が自らの体を自らで決める権利である。この体験はエルノー個人の私的な出来事であると同時に法と社会が、女性の身体をいかに支配してきたかの証言でもある。私的なものがそのまま、政治的・社会的な問題となる。
映画化(『あのこと』、二〇二一年)もされ、女性の権利をめぐる議論のなかであらためて注目された。過去の理不尽を記録することでそれを繰り返さないための証言となる。 エルノー文学の社会的な意義を最も鮮明に示す作品にあたる。
内容
『事件』はアニー・エルノーが、若い日に経験した、非合法の堕胎の記憶を記録した、自伝的な作品である。
物語は一九六〇年代のはじめにさかのぼる。当時、エルノーは、地方の大学に通う、二十代はじめの学生だった。
そのエルノーがある日、望まぬ妊娠をしていることに気づく。
彼女にとって、それは、絶望的な事態だった。学業を続け、生まれ育った労働者階級から上の階級へと上がろうとしていた矢先である。 ここで子を産めば、その道は、断たれてしまう。彼女はなんとしても中絶しなければならないと考える。
だが当時のフランスでは、中絶は法律で固く禁じられていた。犯罪だったのである。
医師に相談しても誰も助けてはくれない。合法的に中絶する方法は、どこにもない。周囲の友人や、家族にも、この妊娠を打ち明けることは、できない。エルノーはこの事態にたった一人で立ち向かうしかなかった。
彼女は危険を承知で非合法の堕胎の方法を探し求める。 伝手をたどり、やみで堕胎を行う女性のもとを探し当てる。そしてその堕胎師のもとで器具を使った、危険で激しい苦痛を伴う処置を受ける。
処置の後、エルノーは、下宿で一人、その時を待つ。やがて彼女は大量に出血する。 血は止まらず、彼女は、意識が遠のくほどの命の危険にさらされる。危ういところで寮の医師に救われる。
エルノーはこの恐怖と苦痛と孤独に満ちた体験を四十年ちかく経ってから当時の日記も、参照しながら、書き記す。
彼女の筆致はあくまで冷静で克明である。感傷に流れることも声高に社会を告発することもしない。ただ、そのとき、何が起きたのか、彼女が、何を感じ、どう行動したのかを事実として、正確に記録していく。
その禁欲的な記述こそが、かえってこの体験の恐ろしさとそれを女性に強いた社会の理不尽さを鋭く、浮かび上がらせる。
女性が自分の体を自分で決めることのできなかった時代。その理不尽な現実を一人の女性の身に起きた「事件」として証言して、この作品は、静かにしかし重く、閉じられる。