クラップの最後のテープ

作者
サミュエル・ベケット
成立
1958
フランス
時代
20世紀以降

概要

老人が若い日に録音した自分の声を聞き返す、たった一人の芝居である。

ベケットは、ゴドーを待ちながら勝負の終わりで、不条理演劇を切り開いた。この『クラップの最後のテープ』は、登場人物がただ一人の独白劇にあたる。

主人公はクラップという老人である。彼は毎年の誕生日に、その一年をふりかえって自分の声をテープに録音する習慣を、長年続けてきた。舞台では老いたクラップが、はるか昔、三十九歳の誕生日に録音したテープを、取り出して、聞き返す。

テープのなかの若きクラップの声は、自信に満ち、希望を語り、ある女性との忘れがたい愛の一場面を、生き生きと語る。だがそれを聞く現在のクラップは、孤独で、みじめな老人である。 彼は、テープの声を、ある時は嘲笑い、ある時は、じっと聞き入り、そして巻き戻して、愛の場面を、繰り返し聞く。

過去の自分と、現在の自分。同じ一人の人間でありながら、その二つは、まるで別人のように、断絶している。若き日の希望は何一つ、実らなかった。時の流れによる、自己の変質と、取り返しのつかない喪失が、テープという仕掛けによって、鮮やかに描かれる。

文学史における評価と影響

ベケットの独白劇の傑作であり、二十世紀演劇の名作の一つとされる。

この作品の独創は録音テープという装置にある。ベケットは過去の自分の声を、テープとして舞台に持ち込んだ。それによって、「過去の自己」と「現在の自己」を、同じ舞台上で、直接に対面させる。 一人の人物でありながら、若い声と老いた姿が、断絶したまま並置されるこの構造は、演劇史上、きわめて斬新だった。

主題は時の流れによる、自己の喪失である。テープのなかの若きクラップは、希望に満ち、愛を語る。だが現在のクラップはその希望を、何一つ実現できなかった、孤独な老人である。同じ人間の過去と現在の埋めがたい落差。 そこに、生きることの哀しみが、凝縮されている。

愛の場面への執着が印象深い。老クラップは若い日に語った、ボートの上での愛の場面を、繰り返し、繰り返し、巻き戻して聞く。失われた愛と、幸福だった一瞬への断ちがたい思い。 過去の輝きにすがりつく老人の姿が、痛切である。

短く、簡潔でありながら、時間と記憶と喪失をめぐる、深い問いを含んでいる。ベケットの無駄を削ぎ落とした演劇の一つの結晶として、繰り返し上演されてきた。

あらすじ

薄暗い舞台。散らかった机の前に、一人の老人が、座っている。クラップである。よぼよぼで、耳が遠く、目も悪い、みすぼらしい老人である。

クラップには長年続けてきた、奇妙な習慣があった。毎年、自分の誕生日に、その一年をふりかえって思ったことを、テープレコーダーに、録音するのである。 何十年ぶんものテープが、几帳面に、箱に整理されている。

今日もまたクラップの誕生日である。彼はまずいつものように、大好物のバナナを、ぶざまに食べる。それから、棚から、一巻の古いテープを、取り出す。それははるか昔、彼が三十九歳だったときに、録音したものだった。

クラップはそのテープを、再生する。

テープから流れ出すのは、若き日のクラップの声である。その声は力強く、自信に満ち、未来への希望を、語っている。三十九歳のクラップは自分の書いている作品への意欲や、人生への抱負を、得意げに述べる。

そしてその声はある忘れがたい思い出を、語り始める。それは湖に浮かべたボートの上で、一人の女性と過ごした、愛の一場面だった。水の揺らぎ、彼女の目、触れ合った肌。 若きクラップは、その幸福な一瞬を、美しく、生き生きと語る。

だがそれを聞いている、現在のクラップは、違う。

彼はテープのなかの若い自分の大げさな希望や、気取った物言いを、ある時は、鼻で笑い、嘲る。実際にはその希望は何一つ、実現しなかったのだ。若きクラップが語った作品も、ほとんど売れなかった。今の彼は成功も愛も得られなかった、孤独でみじめな老人にすぎない。

だがあの愛の場面に来ると、老クラップの態度は、変わる。彼はテープを止め、巻き戻し、その場面を、もう一度、聞く。そしてまた巻き戻し、繰り返し、繰り返し、聞き入る。失われた愛、二度と戻らない幸福な一瞬に、老人は、断ちがたく、すがりつく。

やがて老クラップは今年の分を、新しく録音しようとする。だが語るべきことはもう、何もない。彼はわずかな言葉を吐き捨てるだけで、録音を、やめてしまう。

そして舞台の最後。老クラップはテープをかけたまま、あの愛の場面の声に、じっと、身動きもせず、聞き入っている。 若き日の希望に満ちた声だけが、暗い舞台に、静かに響き続ける。

過去と現在の埋めがたい断絶。時が奪い去ったものへの痛切な思い。それを、たった一つのテープによって描き切って、この独白劇は、幕を閉じる。

作者

登場する文学史