名づけえぬもの
- 作者
- サミュエル・ベケット
- 成立
- 1953
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
概要
人物も物語も消え、ただ「語る声」だけが残る、小説の極限を示す作品である。
ベケットの「三部作」は、モロイ、マロウンは死ぬ、そしてこの『名づけえぬもの』で完結する。三作を通じて、物語と人物は、しだいに解体され、この最終部で、ついにすべてが消え去る。
この作品にはもはや筋も、登場人物も、場所も、時間もない。あるのはただ、語り続ける「声」だけである。その声の主が誰なのか、どこにいるのかも、分からない。「私」と名乗るその声は自分が何者であるかを、探し求めるが、決して見つけられない。
声は絶えず問い続ける。「私とは何か。私はどこにいるのか。誰が語っているのか。」だが答えは決して得られない。名づけようとするそばから、その名は、崩れていく。「名づけえぬもの」——それが、この声の正体である。
にもかかわらず、声は、語ることを、やめられない。有名な結びの言葉がそれを示している。「続けなければならない、私は続けられない、私は続けよう」。語ることの不可能と、それでも語らずにいられないこととの極限の矛盾。そこに、この作品の核心がある。
文学史における評価と影響
ベケットの「三部作」の完結篇であり、二十世紀の実験小説が到達した、一つの極限とされる。
三部作はモロイの崩れつつも残る物語から、マロウンは死ぬの死につつある語りを経て、この作品で、物語のすべてを失う。人物も場所も時間も筋も消え、残るのは、語る声だけになる。小説から、あらゆる要素を剝ぎ取った、その果てにある作品である。
主題は「自己」と「言葉」の不可能性である。声は「私」が何者かを、言葉で捉えようとする。だが言葉は決して「私」を捉えきれない。名づけようとするそばから、その名は、ずれ、崩れていく。 自己を語ることの不可能を、これほど徹底して突きつめた作品は、まれである。
結びの言葉は二十世紀文学の最も有名な一節の一つとなった。「私は続けられない、私は続けよう」。語ることが不可能でありながら、それでも語らずにいられないという、この矛盾は、人間の存在そのものの逃れがたい条件を、言い当てている。
きわめて難解で、読み通すことさえ困難な作品である。だが小説という形式を、その限界まで突き詰めたその実験は、後の文学に、根源的な問いを投げかけ続けている。 ベケットの前衛精神の一つの頂点にあたる。
内容
『名づけえぬもの』はベケットの小説「三部作」の最終部である。この作品を読み始めた者は、まずそこに、これまでの小説にあったものが、何もないことに、気づく。
物語はない。登場人物もいない。舞台となる場所も時間の流れも、ない。
あるのはただ、語り続ける、一つの「声」だけである。その声は「私」と名乗る。だがその「私」が、いったい誰なのか、どんな姿をしているのか、どこにいるのかは、まったく分からない。闇のなかに、ただ、声だけが、響いている。
この声は絶えず、自分自身を、問い続ける。「私は、何者なのか。私はどこにいるのか。そもそもこの声を語っているのは、本当に、私なのか。」
声は自分が何者であるかを、言葉で、捉えようとする。時に、これまでの三部作に出てきた人物たち——モロイやマロウン——の名を、口にしてみる。だがそれらは自分ではない。声はあらゆる名前を、あらゆる仮の姿を、試しては、退けていく。自分を名づけようとするそばから、その名は、ずれ、崩れ、当てはまらなくなる。
こうして声は決して、自分にたどり着けない。「私」を語ろうとすればするほど、「私」は、遠ざかっていく。 言葉は、自己を捉えることが、できない。それが「名づけえぬもの」という題の意味である。
にもかかわらず、この声は、語ることを、やめることが、できない。沈黙したいと願いながら、沈黙できない。 語ることは、無意味であり、不可能である。だがそれでも語り続けるしかない。
そして作品は二十世紀文学で最も名高い、あの結びの言葉へと、向かっていく。
「……続けなければならない、私には続けられない、私は続けよう。」
語ることの不可能。それでも語らずにはいられない、逃れがたい衝動。その極限の矛盾のうちに、人間の存在そのものの条件を刻んで、ベケットの三部作は、幕を閉じる。