しあわせな日々
- 作者
- サミュエル・ベケット
- 成立
- 1961
- 国
- フランス
- 時代
- 20世紀以降
概要
砂に埋められた女がそれでも「しあわせな一日」と言い続ける、不条理劇である。
ベケットは、ゴドーを待ちながらや勝負の終わりで知られる、不条理演劇の巨匠である。この『しあわせな日々』も、その代表作にあたる。
舞台の中央に、こんもりとした砂の山がある。その砂に、下半身を埋められた、中年の女ウィニーがいる。なぜ彼女が砂に埋められているのか、説明はない。彼女は動くことができない。だがウィニーは少しも絶望した様子を見せず、ひたすら明るく、おしゃべりを続ける。
ウィニーは歯を磨き、化粧をし、持ち物を点検し、昔の思い出を語り、そして口ぐせのように言う。「ああ、しあわせな一日だわ」。 背後には、彼女の夫ウィリーがいるが、ほとんど返事もせず、姿もあまり見せない。
第二幕になると、事態は、いっそう悪化する。ウィニーは今度は首まで砂に埋まっている。 もう手も動かせず、持ち物にも触れられない。それでもウィニーはなお明るくしゃべり続け、なお「しあわせな一日」と、言おうとする。
絶望的な状況にありながら、それを直視せず、日常の些事と楽観にすがりついて生きる人間——その姿を、ベケットは、喜劇と悲劇のあわいで、鮮やかに描き出した。
文学史における評価と影響
ベケットの代表的な戯曲であり、二十世紀不条理演劇の傑作とされる。
この作品の衝撃はその視覚的なイメージにある。砂に半身を埋められ、動けなくなった女が、明るくおしゃべりを続ける。このあまりに不条理で、忘れがたい舞台の映像は、それ自体が、人間の状況の鮮烈な寓意になっている。 動けぬまま、少しずつ埋もれていく生。
主題は絶望のなかの楽観と日常である。ウィニーは明らかに絶望的な状況にある。だが彼女はそれを直視しない。歯を磨き、化粧をし、思い出を語り、「しあわせな一日」と言い続ける。そのけなげで、痛ましい楽観のうちに、ベケットは、人間が絶望をやり過ごす、そのありようを見た。
喜劇と悲劇の融合がベケットらしい。ウィニーのおしゃべりは、滑稽で、笑いを誘う。だがその滑稽さの底には、動けぬまま生き埋めにされていくという、深い恐怖と哀しみがある。 笑いと戦慄が、分かちがたく溶け合っている。
ウィニー役は女優にとって、演じがいのある大役として知られる。ほぼ一人の長い独白で、動きを封じられたまま、観客を引きつけ続けねばならない。ベケットの極限まで切り詰めた演劇の忘れがたい達成として、世界中で上演されてきた。
あらすじ
第一幕。舞台の中央に、光にさらされた、こんもりとした砂の山がある。その砂に、中年の女ウィニーが、下半身を、埋められている。
なぜ、彼女が、砂に埋められているのか。その理由はまったく、説明されない。ウィニーは腰から下を砂に固められ、動くことが、できない。 灼けつくような光が、絶えず、彼女を照らしている。
だがウィニーは絶望していない。それどころか、彼女は、目覚めるやいなや、明るく、元気に、一日を始める。
彼女は傍らに置いた袋から、歯ブラシや、鏡や、化粧品や、拳銃などを、取り出す。歯を磨き、化粧をし、帽子をかぶり、持ち物を、一つ一つ、点検する。 そして絶えず、おしゃべりを続ける。昔の思い出、読んだ本の一節、とりとめのない考え。
彼女の口ぐせは「ああ、しあわせな一日だわ(Oh this is a happy day)」である。動けず、光に焼かれ、明らかに異常な状況にありながら、ウィニーは、ことあるごとに、そう言って、自分を、励ます。
砂の山の裏には彼女の夫ウィリーがいる。だがウィリーはほとんど、ウィニーの言葉に、応じない。時おり、新聞を読む声や、うめき声が、聞こえるだけである。それでもウィニーは夫が、そこにいて、自分の話を聞いてくれていると信じることに、心の支えを見出している。
第二幕。事態は悪化している。今や、ウィニーは、首まで、砂に埋まっている。
もう、手も動かせない。あの袋にも持ち物にも触れることが、できない。歯を磨くことも化粧をすることも、できない。できるのはただ、しゃべることと、目を動かすことだけである。
それでもウィニーはなおしゃべり続ける。過去を思い出し、とりとめのないことを語り、そしてなお「しあわせな一日」と、言おうとする。
やがて砂の裏から、夫ウィリーが、はい出してくる。彼は正装して、ウィニーのほうへ、必死に、よじ登ろうとする。その姿が砂に埋もれたウィニーを、助けに来たのか、それとも、傍らの拳銃を、取ろうとしているのかは、分からない。
首まで埋もれ、動けなくなってもなお明るさを手放すまいとするウィニー。絶望を直視せず、日常のしぐさと、けなげな楽観にすがりついて生きる人間の姿を、笑いと哀しみのなかに描いて、この不条理劇は、幕を閉じる。