マルキ・ド・サド
- 原綴
- Marquis de Sade
- 生没
- 1740–1814
- 出身
- パリ
- 本名
- ドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド
- 国
- フランス
- 時代
- 18世紀
生涯
1740年、パリの古い貴族の家に生まれた。本名はドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。侯爵(マルキ)の称号をもつ。若いころから放埒なふるまいで知られ、いくたびも醜聞を起こした。
その素行により、たびたび投獄された。人生のおよそ三十年を、牢獄や精神病院のなかで過ごしたことになる。旧体制のもとでは国王の命令によって、フランス革命後は別の理由で、そして晩年は精神病者として、監禁され続けた。
主要な作品の多くは、この監禁のなかで書かれた。とりわけバスティーユ牢獄での日々に、代表作の草稿が生まれた。晩年は精神病院に収容されたまま、1814年に没した。生前、その名で作品を公にすることはほとんどなかった。
作風
サドの作品は、極端な悪徳と暴力を、徹底して描く。登場人物たちは、あらゆる道徳や禁忌を踏みにじり、他者を苦しめることに快楽を見出す。その描写は過激をきわめ、長く発禁とされ、公に論じることさえ憚られた。
その根にあるのは、既成の道徳や宗教への、徹底した否定である。サドは、美徳が報われ悪徳が罰せられるという通念を退けた。むしろ、自然そのものが破壊と残酷に満ちているのだから、悪徳こそ自然にかなうのだと、登場人物に長々と論じさせる。物語は、しばしばこうした哲学的な議論と一体になっている。
人間の欲望の、最も暗い部分を見つめる。理性や道徳のうわべの下にひそむ、破壊と支配への衝動を、極限まで押し進めて描いた。その意味で、サドの作品は、快楽を描いた読み物であると同時に、人間の本性をめぐる過激な思想の書でもある。
作品
『ジュスティーヌ、または美徳の不幸(Justine)』(1791年)
美徳を守り通そうとする娘ジュスティーヌが、そのために次々と災いに見舞われるさまを描いた小説である。善が報われないという設定を通して、通念の道徳を否定した。サドの思想を示す代表作にあたる。
『ソドムの百二十日(Les 120 Journées de Sodome)』
バスティーユ牢獄で書かれた作品で、あらゆる悪徳を体系的に描こうとした未完の草稿である。細い紙を貼り継いだ長い巻物に書かれ、独房の壁に隠されていたが、1789年のバスティーユ襲撃の混乱で持ち出せず、サドは原稿が失われたと嘆いた。実際には巻物は残り、二十世紀初めに発見・刊行された。過激さのため長く公にされなかった。
これらの作品は、その内容の過激さから、いずれも取り扱いには慎重を要する。
文学史における立ち位置と影響
サドは、人間の欲望と道徳の限界を、極限まで問うた作家として文学史に名を残す。その過激さゆえに長く危険視され、抑圧されてきたが、二十世紀に入って、その思想的な意味があらためて注目された。
その名は、他者を苦しめることに快楽を見出す性向を指す「サディズム」という言葉の語源となった。この一語が、サドの探究した領域の暗さを、端的に物語っている。
再評価には、後世の作家や思想家が関わった。シュルレアリストたちは、サドを、あらゆる抑圧に抗する自由の先駆として称えた。哲学者ボーヴォワールは「サドを焼くべきか」と題した論考で、その思想を正面から論じている。人間の暗部と、道徳の根拠を問う思索は、二十世紀の文学と思想に影響を与えた。ただし、その作品の過激さと、そこに描かれた暴力の是非をめぐる議論は、今日も決着していない。