大いなる遺産

原題
Great Expectations
作者
チャールズ・ディケンズ
成立
1860-1861
イギリス
時代
ヴィクトリア朝

概要

1860年12月から1861年8月まで、ディケンズが主宰する週刊誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド』に連載された長篇小説である。全59章で、ディケンズの長篇の中では短く、構成が緊密なことで知られる。

原題の「great expectations」は、当時の言い方で遺産相続の見込みを指す。誰かが死ねば入るはずの財産をあてにしている状態のことで、作中では主人公ピップが受け取る予定の財産を意味する。日本語の題名にある「遺産」も、この含みを引き継いでいる。

語りは、大人になったピップが自分の少年時代から順に回想する形をとる。語っている「私」は、当時の自分の思い上がりも身勝手も知ったうえで書いているため、出来事の記述にはたえず後年の批評が重なる。舞台はケント州の湿地帯と、そこから汽船で結ばれたロンドンである。

連載の開始は経営上の判断だった。『オール・ザ・イヤー・ラウンド』に載せていた他の作家の連載が不評で部数が落ちたため、ディケンズが自分で立て直しにかかった。当初は月刊二十回の長篇として構想していたものを、週刊に組み替えている。毎回の分量が短く、連載期間も短かったことが、この作品の密度につながった。

一人称の語りはデイヴィッド・コパフィールドに続く二作目にあたる。書き始める前に前作を読み返し、同じ書き方を繰り返していないか確かめたと、友人フォースターへの手紙で述べている。

結末を変えたのは、小説家ブルワー=リットンの助言による。初稿の別離の結末を読ませたところ、読者には酷すぎると言われ、書き直した。どちらが作品にふさわしいかは、以後ずっと議論が続いている。

文学史における評価と影響

貧しい少年が後援者を得て紳士になるという筋は、当時の読者にとってなじみのある成功譚の型だった。この作品はその型を途中で裏返す。手に入れた紳士の身分は、流刑囚の金で買われたものであり、期待していた相続は最初から存在しなかった。上昇の物語が、上昇そのものへの疑いに変わる。

ピップが恥じるのは、自分を育てたジョーの粗野さである。だが作中で一貫して誠実なのはジョーであり、金と教育が人を良くするわけではないことが、この対比で示される。紳士とは何かという問いは、階級の移動が現実に起きはじめていたヴィクトリア朝中期の社会の問題でもあった。

デイヴィッド・コパフィールドと並べて論じられることが多い。同じ一人称の成長の物語でありながら、あちらは苦難を越えて作家として成功する話であり、こちらは得たものをすべて失う話である。ディケンズの初期の明るさが後期の厳しさに変わったことを示す例として扱われる。

ミス・ハヴィシャムの造形は、この作品を離れて広く知られている。止まった時計、腐った婚礼の菓子、着たままの花嫁衣装。時間を止めて生きる人物の像として、後の小説や映画に繰り返し引かれてきた。

映画化も多く、1946年のデイヴィッド・リーン監督の作品がよく知られる。日本では明治期から紹介され、現在も複数の訳が並行して読める。

あらすじ

第一部は、湿地の教会墓地から始まる。七歳の孤児ピップは、両親の墓の前で脱獄囚に捕まり、食料と足枷を切るやすりを持ってくるよう脅される。言われた通りに盗んで届けるが、囚人はまもなく捕まり、盗みは自分がやったと言って少年をかばう。ピップは二十歳以上年上の姉と、その夫で鍛冶屋のジョー・ガージェリーに育てられている。

近くの屋敷サティス・ハウスから、遊び相手を寄越すよう求められる。屋敷の主ミス・ハヴィシャムは、結婚式の朝に花婿から手紙一通で捨てられ、以来、花嫁衣装のまま、屋敷中の時計を止めて暮らしている。養女エステラは美しく育てられているが、ピップの手の粗さと言葉遣いを侮蔑する。ピップは自分の育ちを恥じるようになる。やがて呼ばれなくなり、ジョーの徒弟として鍛冶場に入る。

第二部では、ロンドンの弁護士ジャガーズが現れ、名を明かさない後援者がピップに財産を与え、紳士として教育する意向だと告げる。後援者の正体を尋ねてはならないという条件がついている。ピップはミス・ハヴィシャムの意図だと思い込み、いずれエステラと結婚させるつもりなのだと考える。ロンドンでハーバート・ポケットと同居し、金遣いを覚え、借金を作る。ジョーが訪ねてきたときには、その服装と物言いを恥ずかしく思う。姉が何者かに襲われて寝たきりになり、やがて死ぬ。社交界に出たエステラは求婚を退けず、しかし愛情は持てないと繰り返し、粗野な貴族ドラムルと結婚する。

第三部は、二十三歳になったピップの部屋に、嵐の夜、見知らぬ男が訪ねてくるところから始まる。あの日の脱獄囚マグウィッチだった。オーストラリアへ流され、牧羊で財を成し、食料を分けてくれた少年に恩を返すために、遠くから紳士を一人作り上げたのだと明かす。ピップの財産は流刑囚の稼ぎであり、後援者はミス・ハヴィシャムではなかった。しかも流刑囚が無断で帰国すれば死刑にあたる。

嫌悪と負い目の間で、ピップはマグウィッチを国外へ逃がす計画を立てる。その過程で、マグウィッチがエステラの実の父であること、母親はジャガーズの家政婦モリーであること、ミス・ハヴィシャムを騙した男コンペイソンがマグウィッチのかつての共犯者で、今も追っていることが分かる。ミス・ハヴィシャムはピップに許しを乞うたのち、暖炉の火が衣装に燃え移って重傷を負い、死ぬ。

脱出は川の上で失敗し、コンペイソンは水中で死に、マグウィッチは重傷を負って捕らえられる。死刑判決を受けるが、執行を待たずに獄中で死ぬ。財産は国に没収され、ピップの手には何も残らない。ピップは死の床でマグウィッチに、あなたの娘は生きていて自分が愛していると告げる。

無一文になり熱病で倒れたピップを、ジョーがロンドンまで来て看病し、借金も払っていた。回復したときにはジョーは黙って帰っており、ピップは謝罪と求婚のために故郷へ戻るが、ジョーはすでにビディと結婚したあとだった。ピップはハーバートの商会で働くため国外へ出て、十一年後に帰る。廃屋となったサティス・ハウスの跡で、夫と死別したエステラと再会し、二人は手を取って歩き出す。

この結末には別の形がある。最初に書かれた結末では、二人は路上でひとこと言葉を交わすだけで別れ、それきりになる。刊行前に友人の助言で書き改められた。現在の版でも、両方の結末を併記するものが多い。

作者

登場する文学史