曹操
- 原綴
- 曹操
- 生没
- 155–220
- 出身
- 沛国譙県(現・安徽省亳州)
- 国
- 中国
- 時代
- 古代
生涯
155年、沛国譙県(現在の安徽省亳州)に生まれた。祖父は宦官、父はその養子で、名門ではないが富裕な家柄だった。
後漢末の混乱のなかで頭角を現した。184年の黄巾の乱の鎮圧に加わり、以後、群雄の一人として勢力を広げる。196年、流浪していた献帝を自らの本拠に迎え、天子を擁して諸侯に号令する立場を得た。
200年の官渡の戦いで、有力な対抗者だった袁紹を破り、華北をほぼ統一した。だが208年、南征に際して赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍に敗れ、中国全土の統一は果たせなかった。以後、天下は魏・呉・蜀の三国に分かれる方向へ向かう。
曹操自身は、後漢の丞相、次いで魏王となったが、皇帝の位には就かなかった。220年、六十六歳で死去する。その子曹丕が同じ年に後漢を滅ぼして帝位に就き、魏を建てた。曹操には、死後に武帝の諡が贈られている。
作風
曹操は、武人でありながら第一級の詩人だった。
その詩は、楽府(民間の歌謡に由来する詩形)を用いて書かれた。古い歌謡の形式を借りながら、そこに自分自身の思いを込める。天下の混乱、民の苦難、時の移ろい、そして自らの志。統一を目指す覇者の視野の大きさが、詩に現れている。
「短歌行」は代表作である。酒を前にして人生の短さを嘆きつつ、天下の有能な人材を集めたいという志を歌う。「対酒当歌、人生幾何」——酒に対しては歌うべし、人生は幾ばくぞ——という書き出しで始まり、詩経の句を引きながら、賢者を招く思いを述べる。
「観滄海」は、遠征の途上で海を望んで詠んだ詩である。大海と、そこに浮かぶ島、草木、そして日月星辰を眺め、その雄大さを歌う。中国の詩のなかで、自然の風景を大きく捉えた早い例とされる。
「亀雖寿」には、老いてなお志を持ち続けるという趣旨の有名な一節がある。老驥(老いた駿馬)は厩に伏していても、その志は千里を駆ける、という句である。年老いても大志は衰えない、という気概を歌った。
戦乱の現実を詠んだ詩もある。「蒿里行」は、群雄の争いによって荒廃した華北の惨状を描く。白骨が野に晒され、千里に鶏鳴も聞こえない、という句が、その悲惨を伝える。
文体は簡潔で、力強い。技巧を凝らすより、直接に思いを述べる。この質実さが、後の詩に一つの規範を与えた。
作品
「短歌行」は、人材への渇望を歌った代表作である。
「観滄海」(「歩出夏門行」の一部)は、海を望んだ雄大な詩である。
「亀雖寿」(同じく「歩出夏門行」の一部)は、老いてなお衰えぬ志を歌う。
「蒿里行」は、戦乱の惨状を詠んだ詩にあたる。
曹操は、軍事についての著作も残した。『孫子』への注釈は、現存する最も古い注の一つとして重んじられている。
日本語では、詩のアンソロジーに収められている。数が多くないため、全体を通して読める。
文学史における立ち位置と影響
曹操は、建安文学の中心人物である。建安とは後漢末の年号で、この時期に、曹操とその子の曹丕・曹植、そして周囲の文人たち(建安の七子)によって、詩が大きく展開した。中国において、個人の感情を歌う五言詩が本格的に確立したのが、この時代とされる。
その特徴は「建安の風骨」と呼ばれる。戦乱の時代を背景に、力強く、悲壮で、志を高く掲げる詩風である。後世、詩が技巧に流れて弱くなったとき、繰り返しこの建安の気骨に立ち返ることが説かれた。李白も、建安の詩風を理想として言及している。
武人が詩を書くという伝統の出発点にも立つ。政治と軍事の頂点にある人物が、同時に第一級の詩人でもあるという例は、中国の歴史のなかでも際立っている。父子三人(曹操・曹丕・曹植)がそろって詩人であったことも、文学史上まれである。
一方、曹操の一般的な像は、詩人としてより、三国志演義の奸雄としてのほうが広く知られている。小説では、劉備を正統とする立場から、曹操は権謀術数を弄する悪役として描かれた。だが史実の曹操は、有能な統治者であり、優れた詩人だった。この小説による像と史実との落差は、繰り返し指摘されてきた。
日本でも、三国志の物語を通じて、その名は広く知られている。詩人としての側面の紹介は、漢詩への関心のなかで進んだ。