小プリニウス

原綴
Gaius Plinius Caecilius Secundus
生没
61頃–113頃
出身
コムム(北イタリア・現ロンバルディア州コモ)
ローマ
時代
銀の時代

生涯

61年頃、北イタリアのコムム(現在のコモ)の裕福な家に生まれた。父を早くに亡くし、伯父に引き取られて養子になっている。この伯父が大プリニウスで、当時知られていた自然界の知識を集めた『博物誌』の著者にあたる。二人を区別するため、後世は「大」「小」を付けて呼び分けてきた。

79年、ヴェスヴィオ火山が大噴火し、ポンペイをはじめ周辺の都市が埋まった。当時十七歳だった小プリニウスは、湾を挟んだ対岸からこれを目撃している。伯父の大プリニウスは艦隊の司令官として救助に向かい、同時に噴火を観察しようとして、現地で死んだ。

その後は弁論家として世に出た。法廷で弁論を行って名を上げ、官職を順に昇ってにまで達している。

晩年、皇帝トラヤヌスからビテュニア(現在のトルコ北部)の総督に任じられた。財政の乱れた地域の立て直しが任務だった。この任地から皇帝に宛てた手紙と、皇帝からの返書がまとまって残っている。113年頃、おそらく任地で死去した。

歴史家タキトゥスとは親しく、手紙をやりとりする間柄だった。

作風

残した作品はほぼ書簡だけである。ただし普通の手紙ではない。生前に自分で選び、文章を練り直したうえで書簡集として公表した。相手に用件を伝える手紙の形をとりながら、読者に読ませることを前提に書かれている。

内容は多岐にわたる。友人との付き合い、文学や弁論についての意見、所有する別荘の詳しい描写、裁判の報告、知人の逸話。ローマの上流階級の教養ある人物が、何に関心を持ち、一日をどう過ごしていたかが具体的に分かる。歴史書が扱わない部分の記録として価値が高い。

なかでも二つの書簡がよく知られている。

一つはヴェスヴィオ火山の噴火を記した二通である。友人タキトゥスから、伯父の最期について書いてほしいと頼まれて書かれた。噴煙が幹から枝を広げる松の木のような形で立ち上ったこと、日中なのに闇に包まれたこと、灰が積もって家が埋まっていったこと、逃げる人々の様子。そして救助に向かったまま戻らなかった伯父のこと。あの日に何が起きたかを直接伝える文献は、これしかない。火山学では、大量の噴煙を高く噴き上げるこの型の噴火を「プリニー式」と呼ぶ。

もう一つは、総督時代に皇帝トラヤヌスへ宛てた、キリスト教徒の扱いについての問い合わせである。告発されて連れてこられた者をどう裁けばよいか、キリスト教徒であること自体が罪なのか、悔い改めた者は許すべきか。実務上の判断に迷って指示を仰いだ内容で、そこには、彼らが夜明け前に集まって歌をうたっていたといった観察も含まれる。信じていない側が外から書いた記録であるため、初期キリスト教を知るうえで基本的な史料になっている。

自分を良き市民、良き行政官として見せようとする意識も文面からうかがえる。故郷への寄付や慈善事業についても書き残している。

作品

『書簡集(Epistulae)』

代表作である。全10巻。第1巻から第9巻が友人たちへの手紙、第10巻が皇帝トラヤヌスとの往復書簡にあたる。

第6巻にヴェスヴィオ火山の噴火を記した二通が入る。第10巻にキリスト教徒についての問い合わせと皇帝の返書が入る。

『頌詞(Panegyricus)』

皇帝トラヤヌスを称えた演説である。執政官に就任した際のもので、書簡以外で完全な形で残る唯一の作品にあたる。

日本語では書簡集の抄訳がある。

文学史における立ち位置と影響

公表を前提に書かれた書簡文学の代表とされ、セネカの『倫理書簡集』と並べて論じられる。ただし性格は違う。セネカの手紙が哲学を説くのに対し、小プリニウスの手紙は日常と社交を書く。

ルネサンス以降、ラテン語で手紙を書く際の手本になった。の学者たちは、この文体に倣って互いに書簡を交わしている。優雅で癖のないラテン語が、模範として扱いやすかった。

史料としての価値はさらに大きい。噴火の記録はポンペイの発掘調査と突き合わせて読まれ、地層に残る痕跡と記述が照合されている。キリスト教徒についての報告は、迫害の実態を扱う研究で必ず参照される。

当時の上流階級の暮らしを伝える点でも貴重である。別荘での一日、蔵書、読書会、友人との議論。歴史書に書かれない部分が、この書簡集を通して分かる。

日本での受容は、ローマ史・古代史の研究のなかで進んだ。とくに噴火と初期キリスト教についての書簡が、史料としてよく知られている。

登場する文学史