腕くらべ

作者
永井荷風
成立
1916-1917
日本
時代
近代

概要

新橋の花柳界を舞台に、一人の芸者の恋と生き方を描いた小説である。

荷風は、西洋への憧れを描いた初期作の後、関心を、東京の花柳界——芸者や遊里の世界へと向けた。この『腕くらべ』は、その花柳小説の代表作にあたる。

主人公は、新橋の芸者駒代(こまよ)。かつて芸者を勤め、一度は堅気の身になったが、夫に死なれて、再び新橋に戻ってきた女である。この作品は、その駒代をめぐる、さまざまな男との関係を軸に展開する。

駒代は、かつての恋人だった俳優の瀬川と再会し、心を通わせる。だが、花柳界は、女の色香と男の金とが渡り合う、駆け引きの世界である。駒代の恋も、また芸者としての暮らしも、その打算と見栄の渦のなかで揺れていく。

題の「腕くらべ」は、芸者たちが客をめぐって競い合う、その手練手管の競い合いを指す。荷風は、この花柳界を、批判するのでも美化するのでもなく、その内側の生態を、精緻に描き出す。

芸者や旦那衆、幇間(ほうかん)たちの生きた姿。そして、近代化のなかでなお残る、江戸以来の遊里の情緒。 荷風の失われゆくものへの愛惜が、この作品にも流れている。

文学史における評価と影響

永井荷風の花柳小説の代表作であり、大正期の荷風の円熟を示す作品とされる。

この作品の価値は、花柳界という特殊な世界の生態を、精緻に描き出した点にある。芸者、旦那衆、幇間、置屋の女将。荷風は、その世界の人間関係や、金と色をめぐる駆け引きを、内側から知り尽くしたように描く。風俗小説としての完成度が高い。

主題は、花柳界に生きる女の恋と処世である。主人公・駒代は、恋に生きたいと願いながらも、芸者という立場のなかで、打算と情のあいだを揺れ動く。荷風は、その女の生き方を、道徳の物差しで裁くことなく、ありのままに見つめる。

江戸情緒への愛惜が、荷風の一貫した主題として、ここにも流れている。近代化していく東京のなかで、花柳界は、江戸以来の風情を残す最後の場所の一つだった。荷風は、その滅びゆく世界の美を、惜しむように描いた。 この姿勢は、後の濹東綺譚へと引き継がれる。

荷風の簡潔で香り高い文体も、この作品を支えている。花柳界の風物や、季節のうつろいを描く筆致には、荷風独特の美意識が息づいている。大正期の風俗を伝える資料としても、また荷風の代表作の一つとしても、読み継がれてきた。

あらすじ

新橋の花柳界。芸者の駒代は、この世界に戻ってきたばかりだった。

駒代は、かつて新橋で芸者を勤めていた。一度は、身請けされて堅気の妻になったが、夫に先立たれ、生きるために、再び芸者の稼業に戻ってきたのである。まだ美しく、芸もある駒代は、たちまち新橋で人気を集める。

ある日、駒代は、かつての恋人と再会する。今は俳優として名の売れた瀬川である。昔の思いがよみがえり、二人は、ふたたび心を通わせるようになる。駒代にとって、瀬川との恋は、打算を離れた、数少ない本当の思いだった。

だが、花柳界は、そうした純粋な恋を、そのままにしてはおかない。ここは、女の色香と、男の金とが、絶えず取引される世界である。芸者たちは、より良い旦那(パトロン)を得ようと、互いに客を奪い合う。 それが、題名の「腕くらべ」——手練手管の競い合いである。

駒代のまわりにも、さまざまな男が現れる。羽振りのよい実業家の旦那、遊び慣れた粋人、そして駒代の歓心を買おうとする者たち。 駒代は、生きていくために、こうした旦那たちとの関係も、無下にはできない。

恋する瀬川への思いと、芸者として生きていくための処世。その二つのあいだで、駒代の心は揺れ動く。 やがて、瀬川との仲にも、すれ違いや裏切りが生じていく。

物語には、駒代のほかにも、花柳界に生きる人々が、生き生きと登場する。したたかな芸者仲間、置屋の女将、客の機嫌をとる幇間たち。 彼らの織りなす人間模様が、新橋の遊里を舞台に、色鮮やかに描かれる。

やがて、駒代の恋も、芸者としての暮らしも、この打算と見栄の渦のなかで、一つの結末を迎えていく。

華やかでありながら、どこか物哀しい花柳界の生態。そこに生きる一人の女の恋と処世を描いて、この物語は、江戸以来の遊里の情緒とともに、静かに閉じられる。

作者

登場する文学史