ヒロシマ・ノート

作者
大江健三郎
成立
1965
日本
時代
現代

概要

広島の被爆者と、彼らを支える医師たちの姿を記録した、ルポルタージュである。

大江は、1960年代、原水爆禁止運動をめぐる取材のために、幾度も広島を訪れた。そこで大江が出会ったのは、政治的なスローガンではなく、被爆から二十年を経てなお苦しみ続ける、生身の人間たちだった。

大江が深く心を寄せるのは、二種類の人々である。一つは、原爆症の後遺症に苦しみながら、それでも自ら命を絶たず、黙々と生き続ける被爆者たち。もう一つは、その被爆者を、報われる見込みも薄いまま、誠実に治療し続ける、広島の医師たちである。とりわけ、原爆病院長の重藤文夫の姿に、大江は深く打たれる。

大江は、彼らを「正統的な人間」「威厳ある人間」と呼ぶ。絶望的な状況のなかで、嘆きも、絶望も、居直りもせず、ただ黙って、なすべきことをなす人々。 その姿に、大江は、核の時代を生きる人間の、一つの倫理を見出す。

この本を書いた頃、大江は、私生活でも、障害を持つ長男の誕生という試練に直面していた。広島の人々の「絶望のなかで絶望しない」生き方は、大江自身の生き方とも、深く響き合っていた。

文学史における評価と影響

日本の戦後を代表するルポルタージュであり、大江健三郎の思想の核をなす作品にあたる。

この作品の独自性は、原爆を「思想」としてではなく、「人間」として捉えた点にある。当時、原水爆禁止運動は、政治的な党派対立で分裂していた。大江は、そうしたイデオロギーの争いから距離を置き、被爆の現実を生きる、一人一人の人間へと視線を向けた。

主題は、絶望のなかで、いかに人間の威厳を保つかである。被爆者は、癒えない病と、いつ発症するか分からない不安のなかで生きている。その絶望的な状況で、自殺もせず、狂気にも走らず、静かに生き続ける人々。 大江は、そこに、感傷ではない、真の人間の強さを見た。

「モラリスト」としての大江が、この作品で確立される。大江は以後、核・平和・人間の尊厳といった問題に、生涯を通じて関わり続けた。その倫理的な姿勢の原点が、この広島での経験にある。

私的な体験との結びつきも重要にあたる。大江は、この時期、障害を持つ息子の誕生という苦難に直面していた。広島の人々の生き方から学んだ「絶望しない」姿勢は、個人的な体験で描かれる、障害の子を引き受ける決意と、深くつながっている。

原爆を人間の問題として問い続けたこの記録は、核の時代の古典として、今も読み継がれている。

内容

1963年から1965年にかけて。大江健三郎は、雑誌の取材などのために、たびたび広島を訪れた。

大江が最初に広島へ向かったのは、原水爆禁止世界大会を取材するためだった。だが、その運動の現場は、政治的な党派の対立で、分裂し、混乱していた。 核兵器に反対するという一点でも、人々は一つになれずにいた。

大江は、そうした政治の言葉に、深い失望を覚える。そして、スローガンの応酬から離れ、広島の現実を生きる、生身の人間たちへと目を向けていく。

大江が出会ったのは、被爆から十八年、二十年を経てなお、原爆症の恐怖とともに生きる、被爆者たちだった。

彼らは、白血病やがんの不安を、絶えず抱えている。いつ発症するか分からない。友人が次々に病に倒れていくのを、見送り続けている。 そうした絶望的な状況にありながら、多くの被爆者は、自ら命を絶つことなく、声高に嘆くこともなく、静かに、日々を生き続けていた。

大江は、その姿に、深く胸を打たれる。大江は、彼らを「正統的な人間」「威厳をもった人間」と呼ぶ。 絶望のただなかで、なお絶望に呑み込まれず、人間としての品位を保って生きる人々。

大江が、とりわけ敬意を寄せたのが、広島の医師たちである。

原爆病院長の重藤文夫をはじめとする医師たちは、確たる治療法もなく、報われる見込みも薄いなかで、被爆者の治療に、黙々と献身し続けていた。 華々しい成果を求めるのでもなく、絶望に居直るのでもなく、ただ、目の前の患者のために、なすべきことをなす。

大江は、こうした医師や被爆者の姿に、核の時代を生きる人間の、一つの倫理の形を見出す。それは、大げさな思想ではない。絶望的な現実を直視しながら、それでも、静かに、誠実に生き続けるという、地道な強さである。

この取材のあいだ、大江は、私生活でも、頭部に障害を持つ長男の誕生という、大きな試練に直面していた。わが子の障害を前に、大江もまた、絶望と向き合っていた。

広島の人々の「絶望のなかで絶望しない」生き方は、大江自身の生き方を、静かに照らし出した。わが子を引き受けて生きる決意と、広島で学んだ倫理とは、深く重なり合っていた。

政治の言葉ではなく、生身の人間の尊厳から、核の時代を問うたこの記録は、大江の思想の礎となった。

作者

登場する文学史