雨ニモマケズ

作者
宮沢賢治
成立
1931
日本
時代
近代

概要

宮沢賢治が、病の床で、自分の手帳に書きつけた詩である。発表するために書かれたものではない。

賢治は、この詩を、亡くなる二年前、病床で使っていた黒い手帳に、鉛筆で書きつけた。生前は誰にも見せず、発表もしなかった。 賢治の死後、遺品の手帳が開かれ、この詩が発見された。

詩は、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」と、カタカナで書き出される。雨や風、雪や夏の暑さに負けない、丈夫な体を持ち、欲がなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。 そういう人間に自分はなりたい、と賢治はうたう。

理想の姿は、さらに具体的に描かれる。東に病気の子どもがいれば看病に行き、西に疲れた母がいれば代わりに稲を背負う。 南に死にそうな人がいれば「こわがらなくてもいい」と励まし、北に争いがあれば「つまらないからやめろ」と言う。

自分は、「デクノボー(木偶の坊)」と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされない。そういう者に、自分はなりたい。

これは、詩というより、賢治の祈りである。仏教(法華経)に深く帰依した賢治が、病の床で、自分の理想とする生き方を、自らに誓った言葉にあたる。

文学史における評価と影響

日本で最もよく知られ、最も愛誦される詩の一つである。賢治の名を、国民的なものにした作品にあたる。

この詩の特異な点は、発表を意図して書かれたものではないことである。賢治は、これを作品として世に出さなかった。病床の手帳に、自分自身への戒めとして書きつけた、私的な言葉だった。 その飾らなさが、かえって多くの人の心を打つ。

主題は、無私の生き方への祈りである。強く、欲がなく、他人のために尽くし、それでいて「デクノボー」と呼ばれる存在。自己を空しくして、他者に仕える。 この理想は、賢治が信仰した法華経の菩薩の姿に重なる。

「デクノボー」という自己規定が、この詩の核心にあたる。賢治は、英雄でも成功者でもなく、人に木偶の坊と呼ばれ、目立たず生きる者を、理想とした。世俗の価値観を、根本から裏返す姿勢がここにある。

一方、この詩は、時代によってさまざまに読まれてきた。戦時中には滅私奉公の精神と結びつけて利用され、戦後は無償の献身の象徴として愛された。その受け取られ方の変遷そのものが、この詩の影響の大きさを物語る。

賢治の死後、春と修羅とともにその作品が広く知られるなかで、この詩は最も人口に膾炙し、教科書や記念碑を通じて、世代を越えて読み継がれている。

内容

1931年(昭和六年)秋。宮沢賢治は、すでに重い病(肺の病)に伏していた。農民のために働きすぎ、体を壊していたのである。

その病床で使っていた、黒い革表紙の手帳に、賢治は鉛筆で、この詩を書きつけた。発表するためではなく、自分自身への祈り、あるいは誓いとして。

詩は、こう始まる。

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ」

賢治は、まず、丈夫な体を願う。雨にも風にも雪にも夏の暑さにも負けない、健やかな体。病に伏す賢治にとって、それは切実な願いだった。

次に、心のありようがうたわれる。「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」——欲がなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。

食べ物は質素でよい。一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べる。あらゆることを、自分の勘定に入れず、よく見聞きし、分かり、そして忘れない。そういう、無私で、静かな人間でありたい。

理想の姿は、他者への献身として、具体的に描かれる。

東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり、 西に疲れた母があれば、行ってその稲の束を背負ってやり、 南に死にそうな人があれば、行って「こわがらなくてもいい」と言ってやり、 北にけんかや訴訟があれば、「つまらないからやめろ」と言ってやる。

日照りのときは涙を流し、寒い夏には「オロオロ歩き」、人の苦しみに、ただうろたえるほどに寄り添う。

そして賢治は、こう結ぶ。

「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」

みんなに「木偶の坊」と呼ばれ、褒められもせず、迷惑がられもしない。そんな、目立たず、無欲に、人のために生きる者に、自分はなりたい。

詩の末尾には、賢治が帰依した法華経の仏や菩薩の名が、書き連ねられている。この詩が、彼の信仰と一つに結ばれた、祈りであったことを示している。

賢治は、この願いをどこまで生きられたかを、誰にも語らぬまま、二年後の1933年、三十七歳で世を去った。

手帳は遺品のなかから見つかり、この詩は、賢治の死後、はじめて人々の目に触れた。発表を望まなかった一人の男の、静かな祈りの言葉は、それからずっと、多くの人に読み継がれている。

作者

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