形見の歌

原題
Le Lais
作者
フランソワ・ヴィヨン
成立
1456頃
フランス
時代
中世

概要

1456年の暮れに書かれた詩である。八行を一まとまり(聯)として、それを四十重ねた三百二十行からなる。ヴィヨンの現存する作品のうち、まとまった長さを持つものとしては最初にあたる。

題の lais は「遺贈」を指す。後の大作遺言の書と区別するために『小遺言書』と呼ばれることもあるが、これは後代の便宜的な呼び方で、作者が付けた題ではない。

内容は遺贈の列挙である。ヴィヨンは恋に破れてパリを離れると述べ、知人たちに次々と品物を遺す。ただし遺されるのは、自分の所有物ではないもの実体のない権利、価値のないものばかりである。名指しされるのは当時パリに実在した人物で、その渾名や評判を知る読者に向けて書かれている。

1456年12月、ヴィヨンは仲間とともにナヴァール学寮に押し入り、金庫から五百エキュを盗んだ。学寮はパリ大学に属する施設である。この詩はその犯行の直前か直後に書かれたとみられている。

詩の中でヴィヨンは失恋を旅立ちの理由に挙げるが、実際にはこの盗みからの逃亡だったと考えられている。犯行は翌1457年に発覚し、仲間の一人が取り調べで自白した際にヴィヨンの名も挙がった。ヴィヨンはパリに戻れなくなり、以後の放浪が始まる。

ヴィヨンについては裁判記録と恩赦状が残っており、生涯の断片はそこから分かる。1455年には司祭を刺殺しているが、正当防衛と認められて恩赦を得た。1461年にはオルレアン近郊ムーランで投獄され、新王ルイ十一世の即位に伴う恩赦で釈放されている。1462年、乱闘に関わって絞首刑を宣告され、控訴により十年のパリ追放に減刑された。1463年1月にパリを離れた後の消息は分かっていない。

作品が印刷されたのは1489年である。この詩と遺言の書は同じ版に収められた。

文学史における評価と影響

この詩の意義は、遺言状の体裁を諷刺に転用した点にある。遺贈という厳粛な形式に、価値のない品と実名の悪口を流し込む。形式と中身の落差そのものが笑いを作る。ヴィヨンはこの仕掛けを五年後の遺言の書で二千行の規模に拡張した。

実在の人物への言及が多いことも特徴にあたる。パリの市民、聖職者、役人が実名で登場し、それぞれの渾名や悪評を前提に読ませる。中世の詩の多くが匿名で類型的な人物を扱うのに対し、この詩は特定の都市の特定の時期に強く結びついている。現代の読者には注釈がないと通じないが、そのぶん15世紀パリの生活を伝える資料としての価値がある。

結末の扱いは評価が高い。凍ったインク、消えた蝋燭、そして中断。書くという行為そのものが詩の中に書き込まれ、その中断によって詩が終わる。中世の詩でこの形は珍しい。

作品としての評価は遺言の書に及ばない。あちらには老いと死と貧困の記述があり、諷刺の合間に置かれたバラードが詩に厚みを与えている。この詩の諷刺はまだ遊戯の域にある。二つの詩の五年の隔たりに、投獄と放浪の経験が入っている。

日本語訳では遺言の書と合わせて一冊に収められることが多い。

内容

冒頭でヴィヨンは、1456年のクリスマスの頃に自分は旅立つと述べる。理由として、愛した女に裏切られ、その苦しみから逃れるためにアンジェへ向かうと書く。この説明は後述の通り事実とは考えられていない。

続いて遺贈が並ぶ。

養育者である聖職者ギヨーム・ド・ヴィヨンには自分の名声を、恋人には自分の心を遺す。ここまでは形の上で遺言らしい体裁を保っている。

以後は皮肉に転じる。金貸しには返せない借金の証文を、裕福な市民には他人の家の看板を、修道士にはその修道士のものではない修道院の権利を遺す。

看板をめぐる一連の遺贈は、この詩でよく知られた部分にあたる。当時のパリの店は絵を描いた看板を掲げており、それが住所の役割も果たしていた。「熊」「鹿」「驢馬」「鸚鵡」といった看板の名が並べられ、それぞれに卑猥な、あるいは侮辱的な意味が持たされている。誰の店の看板を誰に遺すかという組み合わせ自体が諷刺になる仕組みで、当時の読者は店主が誰かを知っていた。

貧しい学生には通りに落ちているものを、乞食には蚤と南京虫を遺す。何も持たない者が何も持たない者に無を遺す形になっている。

最後の聯で場面が変わる。深夜、ヴィヨンは書き物机に向かっている。鐘が鳴る。書き続けようとするが、インクは凍り、蝋燭は消えている。眠気が襲う。そして「そこで私は書くのをやめた」という一句で詩が終わる。

作者

登場する文学史