半獣神の午後
- 原題
- L'Après-midi d'un faune
- 作者
- ステファヌ・マラルメ
- 成立
- 1876
- 国
- フランス
- 時代
- 19世紀
概要
1876年に刊行された長詩である。全百十行の十二音節詩で、半獣神——上半身が人、下半身が山羊の姿をした、ギリシア神話の存在——の独白として書かれる。
内容は単純である。夏の午後、半獣神が目を覚まし、さっきまで二人のニンフを抱いていたと思う。だがそれが実際にあったことか、自分の見た夢かが分からない。半獣神はその区別をつけようとし、つかないまま、また眠りに落ちる。
事件は起きない。書かれるのは、思い出そうとする意識の動きと、その途中で像が変形していく過程である。
刊行の形も特異だった。マラルメはこれを、マネの挿絵と日本風の綴じ糸を用いた豪華本として出した。部数は少なく、売れなかった。
マラルメは1865年、この題材を劇として書き始めた。役者のコクランに読ませたが、舞台には向かないと言われた。以後、十年をかけて詩として書き直している。
1875年、当時の主要な詩の年鑑への収録を申請したが、選考で落とされた。落とした側にはアナトール・フランスがいた。
翌1876年、マラルメはこれを単独の本として出す。マネが四枚の挿絵と装飾を描き、オランダ紙を使い、日本風の絹の紐で綴じた。定価は高く、部数は百九十五部だった。ほとんど売れていない。
マラルメは当時、英語教師として生計を立てていた。詩は極端に遅く、少なく書いた。生前に出た詩は薄い一冊に収まる。
1894年、ドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』を作曲した。当初は前奏曲・間奏曲・終曲の三部の構想だったが、前奏曲だけで完結した。マラルメは初演を聴き、満足したと伝えられる。
1912年、この曲を使ってニジンスキーがバレエを振り付け、自ら踊った。パリでの初演は、最後の場面が猥褻だとして騒動になった。
文学史における評価と影響
象徴派の代表作として扱われる。象徴派とは、1880年代後半にフランスで自称され始めた詩の傾向で、事物を名指すのではなく、暗示によって喚起することを目指した。マラルメはその中心にいた。
マラルメ自身の言葉が繰り返し引かれる。事物を名指すことは、詩の楽しみの四分の三を奪うことである。少しずつ推測させることこそが夢想にあたる、という趣旨の発言である。
この詩の構造もそれに沿っている。何が起きたかは最後まで確定しない。確定しないこと自体が主題になっている。
言葉の扱いも特徴にあたる。マラルメは、詩の言葉は日常の言葉とは別のものだと考えた。日常の言葉は情報を伝えるための道具だが、詩の言葉は音と形を持った事物として置かれる。この考え方は後の骰子一擲でさらに徹底される。
他の芸術への波及も大きい。ドビュッシーの曲は、調性の枠を緩めた作品として音楽史に位置づけられている。ニジンスキーの振付は、それまでのバレエの動きを平面的な姿勢に置き換えたもので、20世紀の舞踊の起点の一つに数えられる。詩、音楽、舞踊が同じ題材で連なった例として言及される。
内容
冒頭で半獣神が言う。あのニンフたちを、私は永遠のものにしたい。
そこから確認が始まる。あれは本当にいたのか。それとも、暑さと自分の欲望が作った像なのか。
半獣神は証拠を探す。葦の茂み。水面。自分の吹いた葦笛の音。だが、どれも決め手にならない。葦笛の音は、風の音とも取れる。水面の乱れは、ニンフが逃げた跡とも、自分が見た幻とも取れる。
途中で、半獣神は二人を捕らえた場面を語り出す。眠っている二人を抱え上げ、引き離そうとし、逃げられる。この記述は具体的だが、それが記憶なのか作り話なのかは示されない。
半獣神は、確かめるのをやめる。証拠がないなら、葦笛で吹いて永遠にすればよい。芸術によって残せば、あったかどうかは問題でなくなる。
最後に、暑さと酒に負けて、半獣神は眠りに落ちる。二人の姿にまた会えるだろう、と言い残して終わる。
意味の取りにくさは、文の構造による。主語と述語が離れ、関係代名詞が重なり、途中で語りかける相手が変わる。同じ語が別の意味で二度使われる。フランス語の原詩では、句読点も通常と異なる置き方をされている。