海と毒薬

作者
遠藤周作
成立
1957
日本
時代
現代

概要

戦時中に実際に起きた、捕虜の生体解剖事件をもとにした小説である。

太平洋戦争末期、九州の帝国大学の医学部。捕虜のアメリカ兵を、生きたまま手術台に載せ、実験のために解剖して殺す。肺をどこまで切除できるか、血管に空気を入れるとどうなるか。医学の名を借りた殺人が、大学の中で行われる。

小説は、その事件に関わった人々を、それぞれの視点から描く。主人公の一人、研修医の勝呂は、実験に加わることになる。勝呂は、はっきりと拒みもせず、積極的に望みもせず、流れのなかで殺人に加担していく。

遠藤が問うのは、その「罪の意識のなさ」である。勝呂も、他の関係者も、恐ろしいことをしたのに、深く苦しまない。日本人には、神の前で裁かれるという感覚がない。だから、罪を犯しても、それを罪として感じない。この「罪を感じられなさ」こそが、遠藤にとっての問題だった。

この問いが、後の沈黙につながる。キリスト教のない日本で、罪とは、良心とは、神とは何か。遠藤は、そのテーマをこの初期作で立ち上げた

文学史における評価と影響

遠藤の出世作であり、その一貫した主題が最初に明確な形をとった作品にあたる。

素材は、九州帝国大学で実際に起きた生体解剖事件(1945年)である。遠藤はこの事件を小説化し、日本人の罪の意識のあり方を問うた。

主題は、日本人には神がいないことである。西洋のキリスト教徒は、罪を犯せば神の前で裁かれるという意識を持つ。日本人にはそれがない、と遠藤は考えた。勝呂たちは、人を殺しても、超越的な裁きを恐れない。恐れるのは、世間の目と、自分の立場だけである。

「罰なき罪」という問題が、この作品の核心にあたる。神がいなければ、罪は罪として成立するのか。苦しむべきときに苦しめない人間を、遠藤は突きつめて描いた。 この問いは、沈黙で「神の沈黙」として、さらに深められる。

登場人物の書き分けが評価される。実験に加わる医師や看護婦が、それぞれ違う動機と無感覚を持つ。確信犯もいれば、流されただけの者もいる。 悪を、一つの型に押し込めない。

一方、この作品を反戦文学として単純化することへの警戒もある。遠藤が問うたのは、戦争の是非より、人間の内面の宗教的な問題だった。告発ではなく、罪の可能性そのものへの問いとして読むべきだ、とされる。

熊井啓が1986年に映画化した。

あらすじ

現在。東京の郊外で開業する医師勝呂は、患者から奇妙な印象を持たれている。腕は確かだが、どこか虚無的で、何を考えているか分からない。その勝呂の過去が、少しずつ明かされていく。

回想。太平洋戦争末期、九州のF大学医学部

勝呂は、そこの研修医だった。真面目だが、覇気のない青年である。同期の戸田は、勝呂とは対照的に、明晰で冷静で、自分の出世を計算している。

大学の第一外科では、教授の座をめぐる派閥争いが続いている。そんななか、軍部との関係から、ある「実験」が持ち込まれる。

撃墜されたB29の搭乗員——捕虜のアメリカ兵を、生きたまま解剖する。表向きは、肺結核の治療に役立つ手術データを取るため。実際は、人体でどこまでできるかを試す、生体実験である。

勝呂は、その実験に加わるよう求められる。勝呂は、明確に拒まない。拒めば立場を失う。周囲もやると言っている。流されるように、勝呂は手術室へ入る。

手術室で、捕虜が台に載せられ、麻酔をかけられる。そして、生きた人間の胸が開かれ、肺が切除されていく。 捕虜は死ぬ。二人目の捕虜には、血管に空気を注入する実験が行われる。

同じ場にいた者たちが、それぞれの反応を見せる。

戸田は、冷静である。自分は、これを恐ろしいと感じない。それが恐ろしい、と戸田は考える。幼い頃から、悪いことをしても良心の呵責を覚えない自分に気づいていた。罪を感じられない自分こそが、問題なのだ。

看護婦の上田は、以前、自分を裏切った者への恨みから、実験に冷ややかに加わる。

勝呂は、手術のあいだ、ほとんど何もできない。吐き気を覚えながら、それでもその場から逃げない。そして、事が終わった後も、深い罪の意識に苦しむわけではない。ただ、心の中に、暗く冷たいものが残る。

戦後、事件は発覚し、関係者は裁かれる。勝呂も罰を受ける。

だが、開業医となった現在の勝呂には、あのとき自分がしたことへの、はっきりした悔恨も、贖いへの意志もない。 ただ、虚無的に、日々の診療を続けている。

神の裁きも、心からの悔いもないまま、罪を犯した人間は、どう生きるのか。その問いを残して、小説は閉じられる。

作者

登場する文学史