ミヒャエル・コールハース
- 原題
- Michael Kohlhaas
- 作者
- ハインリヒ・フォン・クライスト
- 成立
- 1810
- 国
- ドイツ
- 時代
- 古典主義・ロマン主義
概要
1810年に発表された中篇小説である。16世紀のドイツに実在した人物ハンス・コールハーゼの事件に取材している。
主人公ミヒャエル・コールハースは、真面目で誠実な馬商人である。ある日、領主の城の前を通った際、通行証がないという言いがかりをつけられ、二頭の馬を人質に取られる。従僕を残して馬を預けたが、戻ってみると、馬は酷使されて痩せ衰え、従僕は暴行されて追い出されていた。
コールハースは、正当な補償を求めて訴え出る。だが、加害者の貴族が権力者と縁続きだったため、訴えはことごとく握りつぶされる。 法に訴える道が閉ざされたとき、コールハースは、自らの手で正義を実現しようと決意する。
物語は、一人の善良な市民が、不正への怒りから武力に訴え、次第に暴力そのものに呑み込まれていく過程を描く。正義を求める心が、いかにして破壊者を生むかが、この作品の主題である。
クライストは1777年、プロイセンの軍人貴族の家に生まれた。軍務を離れ、哲学と文学に打ち込んだが、生前は評価されず、精神的な危機を繰り返した。1811年、この作品の発表の翌年、湖畔で女性とともに心中し、三十四歳で死去した。
素材となったハンス・コールハーゼは、16世紀に実在した商人である。馬をめぐる紛争から領邦当局と争い、私的な報復に走って、最終的に処刑された。クライストは、この史実の骨格を用いながら、法と正義の問題を突き詰める物語に作り変えた。 ルターとの対面の場面は、クライストの創作である。
文体は、クライスト特有の緊密で息の長い構文による。感情を排した簡潔な報告体で、異常な出来事を淡々と語る。この冷静な語り口が、内容の激烈さと対照をなす。
文学史における評価と影響
法と正義の緊張を扱った作品として、繰り返し論じられてきた。コールハースは、法を破る無法者でありながら、その動機は、法が正義を実現しないことへの怒りにある。「正義を求める心が、世界を破壊する」という逆説が、この作品の核心にある。
主人公の造形は、単純な善人でも悪人でもない。冒頭で語り手は、この男を「世にも正しい人間であると同時に、世にも恐ろしい人間」と評する。徹底して正義を求める性格が、その正義が拒まれたとき、際限のない暴力へと反転する。絶対的な正義への渇望が、いかに危険でありうるかを、この作品は示す。
法哲学の分野では、この作品はしばしば参照される。法が機能しないとき、個人が実力で正義を実現しようとすることの是非。国家による法の独占と、個人の正義感の衝突。これらは、法理論の根本問題であり、コールハースの物語はその劇的な事例として引かれる。
20世紀には、この主題が改めて注目された。個人が、不正な体制に対して、暴力に訴えることの正当性という問いは、政治的な文脈で切実さを増した。テロリズムと抵抗運動の境界をめぐる議論の中で、この古い物語が引き合いに出されることもある。
クライスト自身の評価は、死後に高まった。生前は理解されなかったこの作家は、後に、ドイツ文学における最も独創的な散文の書き手の一人とされるようになった。この作品は、その代表作である。
映画化もされている。日本でも訳が読める。短く、緊密な構成で読ませる。
あらすじ
馬商人コールハースは、馬を売りにザクセンからブランデンブルクへ向かう途中、トロンカ城の関所で足止めされる。城主のヴェンツェル・フォン・トロンカは、通行証を持たぬなら馬を置いていけと要求する。コールハースは、そんな証書が必要とは知らなかったが、やむなく二頭の黒馬を担保に置き、従僕を残して先へ進む。
通行証など元々必要のないものだったと分かり、コールハースは馬を引き取りに戻る。ところが、預けた馬は畑仕事にこき使われて骨と皮になり、抗議した従僕は殴られて追い出されていた。コールハースは、馬を元の状態に戻すことと、従僕への償いを、法にのっとって要求する。
コールハースは、正式に訴訟を起こす。だが、加害者トロンカ一族は、ザクセンの宮廷に縁者を持っていた。訴えは、その縁故によって次々に退けられる。妻リスベトが、直接、領主に嘆願しようとするが、警備兵に突き飛ばされて負傷し、それがもとで死ぬ。
法による救済の道が完全に閉ざされたとき、コールハースは決意する。財産を処分し、家を畳み、部下を集めて、トロンカ城を襲う。城を焼き、加害者を追う。トロンカは逃げる。コールハースは、これを捕らえるため、次々に町を焼き、勢力を拡大していく。当初は正義の回復だけを求めていた行動が、大規模な武力蜂起へと膨れ上がる。善良な市民が、地域を騒がせる無法者になっていく。
宗教改革者マルティン・ルターが、この事態を憂え、コールハースに書簡で自制を求める。コールハースはルターと会い、自分は正義を求めているだけだと訴える。ルターの仲介で、ザクセン侯は、コールハースが武装を解けば、正当な訴えを改めて審理すると約束する。コールハースは武器を捨てる。
だが、約束は再び反故にされかける。宮廷内の権力者が、コールハースを陥れようと画策する。事件は、ザクセンとブランデンブルクという二つの領邦の政治的な思惑に絡めとられていく。
最終的に、コールハースの訴えは認められる。トロンカは処罰され、痩せた馬は元通りに肥やして返され、従僕への償いもなされる。正義は、形の上では完全に実現する。だが同時に、コールハースは、武力蜂起の間に犯した放火と殺人の罪により、死刑を宣告される。コールハースは、自分の要求が通ったことに満足し、処刑を静かに受け入れる。正義は回復されたが、それを求めた者は死ぬ。 断頭台へ向かう場面で、物語は閉じられる。