デーミアン
- 原題
- Demian
- 作者
- ヘルマン・ヘッセ
- 成立
- 1919
- 国
- ドイツ
- 時代
- 20世紀前半
概要
1919年に刊行された長篇小説である。副題は「エーミール・シンクレールの若き日の物語」。
主人公シンクレールは、少年時代を回想する形で、自らの内面の成長を語る。明るく安全な家庭の世界と、その外にある暗く危険な世界。 シンクレールは、この二つの世界の対立の中で育つ。ある日、年上の乱暴な少年に脅され、嘘の告白をして、悪の世界に足を踏み入れてしまう。
そのシンクレールを救うのが、同じ学校に転入してきた、大人びた謎めいた少年マックス・デーミアンである。デーミアンは、既成の道徳や宗教の解釈を疑い、独自の思想を語る。善と悪、光と闇を分けることそのものを問い直す。 シンクレールは、デーミアンに導かれ、自分自身の内面を見つめ、既成の価値を越えて、本当の自己へと至ろうとする。
作品は、青年期の内面の遍歴を描く。第一次大戦の直後に発表され、戦争で傷ついた若い世代に、熱狂的に受け入れられた。
ヘッセは1877年の生まれ。この作品を書いた時期、深刻な精神的危機の中にあった。第一次大戦への反戦的な立場から国内で非難され、父の死、妻の精神病、自身の危機が重なった。この時期、ヘッセは精神分析の治療を受けている。 ユングとその弟子の思想が、この作品に深く影を落としている。カインの徴の解釈、アプラクサスという両義的な神、両性具有の理想像などは、ユング心理学の元型の概念と響き合う。
作品は当初、エーミール・シンクレールという架空の若者の名で、匿名で発表された。 すでに著名な作家だったヘッセが、名を伏せたのは、新しい世代の声として読まれることを望んだためとされる。作品は、新人の作として文学賞を受けたが、後に真の作者がヘッセであることが判明し、ヘッセは賞を返上した。
文学史における評価と影響
第一次大戦後の若い世代の書として、大きな反響を呼んだ作品である。戦争によって、既成の価値と権威が崩壊した後、若者たちは、新しい生き方の指針を求めていた。既成の道徳を越えて、自分自身の内面に真実を求めよ、というこの作品のメッセージは、その渇望に応えるものだった。
主題としての「自己への道」が、この作品と、以後のヘッセの作品を貫く。人は、外から与えられた価値に従うのではなく、自分自身の内なる声に従って生きなければならない。「私が本当に望んだのは、自分の内から出ようとするものに従って生きることだった」という趣旨の言葉は、この作品の中心にある。
善悪二元論への問い直しも、重要な主題である。明るい世界と暗い世界、善と悪。既成の道徳は、これらを分け、一方を肯定し他方を否定する。だがこの作品は、両者を一つに統合することを求める。アプラクサスという、善と悪を兼ねた神の像が、その象徴である。
心理学との関わりも深い。ユング心理学の無意識、元型、自己実現といった概念が、物語の骨格をなしている。この点で、この作品は、精神分析の思想を文学化した早い例として論じられる。
日本では、青年の愛読書として長く読まれてきた。冒頭の「鳥は卵から抜け出ようと戦う」の一節は、とりわけ広く知られている。訳は複数ある。
あらすじ
シンクレールは、敬虔で安定した中流家庭に育つ。だが、その外には、暴力や嘘や欲望の渦巻く、もう一つの世界があることを、幼くして感じ取っている。
十歳のころ、シンクレールは、乱暴な年上の少年クローマーの気を引こうと、盗みをしたと嘘の自慢をする。クローマーは、それを脅しの種にして、シンクレールをゆすり、支配する。シンクレールは、明るい家庭の世界から切り離され、罪と恐怖の暗い世界に囚われる。
そこへ、転校生のデーミアンが現れる。大人びて、聡明で、周囲とは異質な少年である。デーミアンは、シンクレールの窮状を察し、クローマーを追い払って救う。デーミアンは、旧約聖書のカインとアベルの物語を、独自に解釈してみせる。弟を殺したカインの額の徴は、呪いではなく、他の者にはない力の徴なのだ、と。既成の善悪の解釈が、揺さぶられる。
成長したシンクレールは、寄宿学校へ進む。デーミアンと離れ、放蕩に耽り、荒れた生活を送る。だが、公園で見かけた一人の少女に、清らかな憧れを抱く。その姿を絵に描くうち、絵は、少女とも、デーミアンとも、そして自分自身とも見える不思議な像になる。
シンクレールは、デーミアンから、ある思想を受け取る。「鳥は卵から抜け出ようともがく。卵は世界だ。生まれようとする者は、一つの世界を破壊しなければならない。」 その鳥は、アプラクサスという神のもとへ飛ぶ。アプラクサスは、善と悪、神と悪魔を一つに合わせ持つ神である。既成の道徳が善と悪に分けたものを、再び一つのものとして捉えること。それが、シンクレールの向かう道になる。
シンクレールは、デーミアンと、その母エヴァ夫人と再会する。エヴァ夫人は、母であり、恋人であり、導き手でもある、両性を兼ねた理想の存在として描かれる。シンクレールは、この母子のもとで、自己の完成へと近づいていく。
そこへ、第一次世界大戦が始まる。デーミアンもシンクレールも、戦場へ赴く。シンクレールは、負傷して野戦病院に運ばれる。傍らには、瀕死のデーミアンがいる。デーミアンは、エヴァ夫人の口づけを伝え、そして姿を消す。目覚めたシンクレールの傍らに、デーミアンはもういない。だが、鏡を覗くと、そこに映る自分の姿は、導き手デーミアンに似ていた。 自己の内に、導き手を見出したところで、物語は閉じられる。