ハインリヒ・マン

原綴
Heinrich Mann
生没
1871–1950
出身
リューベック
ドイツ
時代
20世紀前半

生涯

1871年、リューベックの穀物商の家に生まれた。四歳下の弟がトーマス・マンである。

父の死後、家業は解散され、一家はミュンヘンへ移った。ハインリヒは書店の見習いと出版社の勤務を経て、文筆に転じる。イタリアに長く滞在し、その風土と美術に傾倒した。

1900年代から小説を発表し、社会諷刺の書き手として認められる。1905年の『ウンラート教授』は、後に映画『嘆きの天使』の原作として広く知られることになった。

第一次大戦では、弟と決定的に対立した。ハインリヒはフランスの民主主義的伝統を擁護し、戦争に反対した。トーマスはドイツの文化と非政治的な立場を掲げてこれを批判し、兄を名指ししない形で長い論駁を書いている。兄弟は数年間絶交した。1922年に和解し、以後はトーマスのほうが民主主義擁護へ立場を移していく。

ワイマール共和国期には、の代表的な擁護者になった。1931年、プロイセン芸術アカデミーの文学部門の長に選ばれている。

1933年、政権掌握直後にアカデミーを追われ、フランスへ亡命した。1940年、ドイツ軍のフランス侵攻を受けてピレネーを徒歩で越え、スペインとポルトガル経由でアメリカへ渡る。

亡命後の生活は困窮した。ハリウッドで脚本の職を得られず、弟からの援助に頼っている。1949年、東ドイツの芸術アカデミー総裁への就任を受諾したが、渡航前の1950年、ロサンゼルス近郊で79歳で死去した。

作風

ハインリヒ・マンが書いたのは、権威に従うことで力を得る人間である。

『臣下』の主人公ディーデリヒ・ヘスリングがその典型にあたる。学校でも軍隊でも工場でも、上の者に徹底して屈従し、下の者を徹底して抑えつける。皇帝を崇拝し、その言葉を真似て演説する。卑劣だが、当人には一切の疑いがない。期のドイツ社会が、こうした人間を作り出す仕組みとして描かれる。

諷刺は容赦がなく、誇張を辞さない。弟トーマス・マンが人物の内面を細かく分析するのに対し、ハインリヒは類型を作って外から叩く。この作風の違いは、二人の政治的立場の違いとも重なる。

同時に、フランス的な明晰さへの傾倒がある。文学は社会に対して責任を負うという立場をとり、ゾラをその模範に挙げた。ドイツの作家が政治に関与しない伝統を、繰り返し批判している。

女性を主人公にした作品も多い。抑圧に抗って自分の生を選ぼうとする女性が、繰り返し書かれた。

晩年の歴史小説では調子が変わる。フランス王アンリ四世を主人公にした二部作は、宗教戦争を終わらせた君主を、理性と寛容の体現者として描いたものである。ナチス期に亡命先で書かれており、失われた価値を提示する意図があった。

作品

『ウンラート教授』(1905年)

厳格なギムナジウムの教師が、酒場の歌手ローザに惑溺して身を持ち崩す話である。1930年、マレーネ・ディートリヒ主演の映画『嘆きの天使』の原作になった。

『臣下』(執筆1914年、刊行1918年)

代表作である。皇帝ヴィルヘルム二世治下のドイツを舞台に、権威に媚びる男の出世を描く。検閲のため大戦中は刊行できず、帝政が倒れた直後に出版された。

『貧しき人々』(1917年)、『首領』(1925年)と合わせて「帝国」三部作をなす。

『アンリ四世の青春』(1935年)と『アンリ四世の完成』(1938年)は亡命期の歴史小説である。

日本語では『ウンラート教授』と『臣下』が読める。

文学史における立ち位置と影響

ハインリヒ・マンは、20世紀前半のドイツで、政治に関与する作家の代表だった。

『臣下』は帝政ドイツの精神構造を分析した作品として、繰り返し参照される。権威に服従することで自分も権力の一部になったと感じる心理を描いており、ナチズムがなぜ受け入れられたのかを論じる際の文学的な例になった。刊行直後に大量に売れ、ワイマール期の共和主義者に読まれている。

トーマス・マンとの対立は、ドイツの知識人が政治とどう関わるかをめぐる論争として、文学史の一項目になっている。第一次大戦期のこの対立は、後にトーマスが兄の立場へ移ることで実質的に決着した。

東ドイツでは反ファシズムの作家として顕彰され、遺骨がベルリンに移された。一方、西ドイツでは長く弟の影に置かれている。この評価の分裂そのものが、冷戦期のドイツ文学史の特徴を示す例として扱われる。

映画『嘆きの天使』を通じた知名度も大きい。ただし原作と映画では結末が異なり、原作のほうが社会諷刺の色が濃い。

日本では戦前から翻訳があり、『ウンラート教授』が映画とともに知られている。

登場する文学史