谷間の百合

原題
Le Lys dans la vallée
作者
オノレ・ド・バルザック
成立
1836
フランス
時代
19世紀

概要

1836年に刊行された長篇小説である。バルザックが約九十篇の小説をまとめた『人間喜劇』の一篇にあたり、「田園生活の情景」に置かれている。

形式は手紙である。全体が、青年フェリックス・ド・ヴァンドネスが後の恋人ナタリーに宛てて、自分の過去を打ち明ける長い手紙になっている。末尾にナタリーの返信が付く。

内容は、フェリックスとモルソフ伯爵夫人アンリエットの関係である。夫人はトゥーレーヌ地方の谷にある屋敷に住み、気難しい夫と病弱な二人の子を抱えている。フェリックスと夫人は互いを想うが、夫人は最後まで一線を越えない。

舞台のトゥーレーヌはバルザックの故郷である。アンドル川の谷の描写が、この作品の評価の一部を占めてきた。

バルザックは1835年から翌年にかけてこの作品を書いた。舞台のトゥーレーヌは自分の生まれた土地である。

執筆の動機の一つに、他の作家への対抗があった。バルザックは友人への手紙で、サント=ブーヴが1834年に出した小説『愛欲』に対抗して、精神的な愛を扱った作品を書くと述べている。

モルソフ夫人の造形には、バルザックが二十代のころに援助を受けたベルニー夫人の影が指摘される。二十歳以上年上で、バルザックを支え、教育した女性である。ベルニー夫人はこの作品の執筆中、1836年に死去した。

刊行をめぐって訴訟が起きた。バルザックは雑誌に連載する契約を結んでいたが、校正の段階で大幅に書き直したため掲載が遅れ、雑誌側が先行して未推敲の版を出した。バルザックは訴え、勝訴している。

文学史における評価と影響

義務と感情の対立が主題にあたる。夫人は不幸な結婚を義務と信仰によって耐え抜き、愛する相手にも身を許さない。だがその抑制は夫人を癒さず、蝕む。臨終の場面で、それまで保ってきたものが崩れる。

この結末の扱いが、作品の評価を分けてきた。徳を守り抜いた女性の悲劇として読む見方と、抑圧の告発として読む見方の両方がある。バルザックは夫人を美化していないが、断罪もしていない。

風景描写はこの作品の特徴として繰り返し挙げられる。アンドル川の谷、季節ごとの花、光と水。バルザックの他の作品は都市と金銭を扱うものが多く、これほど自然に紙数を割いた例は少ない。題の「谷間の百合」はこの谷に咲く花であり、同時に夫人を指す。

社交界の処世を教える長い手紙も、資料として扱われてきた。王政復古期の社会で、地方出身の青年がどう振る舞えば認められるかが、具体的に書かれている。

末尾のナタリーの返信は、作品の印象を大きく変える。それまで二百ページ以上にわたって語られた愛の物語が、受け取った側から見れば迷惑な打ち明け話にすぎない、という形で閉じられる。この切り返しを、バルザックによる自作への皮肉と読む見方がある。

あらすじ

フェリックスは愛情の薄い家庭に育った。母は冷たく、寄宿舎でも孤立していた。

二十歳のころ、地方の舞踏会で、フェリックスは見知らぬ女性の背に思わず口づけをしてしまう。女性は驚いて去る。これがモルソフ伯爵夫人アンリエットだった。

やがてフェリックスは、トゥーレーヌの谷にあるクロシュグールドの屋敷に夫人を訪ねる。

夫人の暮らしが示される。夫モルソフ伯爵は、フランス革命の時期に亡命し、その経験から猜疑心が強く、些細なことで激高する。二人の子は病弱である。夫人はこの家を一人で支えている。

フェリックスと夫人は互いを想うようになる。だが夫人は義務と信仰を守り、関係を精神的なものにとどめる。フェリックスを「弟」として扱い、将来のために助言する。

夫人は長い手紙を書いて、社交界での身の処し方を細かく教える。誰に近づき、何を避け、どう振る舞うか。この手紙は作中で数十ページを占める。

フェリックスは夫人の勧めもあってパリに出て、宮廷に仕える。

そこでイギリス人の貴婦人アラベル・ダドリーと出会う。情熱的で、社会の掟を意に介さない。フェリックスはその愛人になる。

この関係が夫人の知るところとなる。夫人は深く傷つく。義務のために自分の想いを抑え続けてきた末に、相手は別の女のもとにいた。

夫人は衰弱していく。抑えてきた感情と、長年の忍耐が体を蝕んでいた。

フェリックスが駆けつけたとき、夫人はすでに死の床にある。

臨終が近づくと、夫人は変わる。それまでの忍耐と諦めが崩れ、生きたかった、愛したかったという言葉が噴き出す。自分は何も味わわずに死ぬ、と口にする。この場面は当時から議論の的になった。

司祭の導きによって夫人は落ち着きを取り戻し、息を引き取る。

夫人の死後、フェリックスは遺された手紙を読む。そこには、抑え続けてきた想いと、その苦しみが書かれている。

作品の末尾は、この告白を読んだナタリーの返信である。ナタリーは、亡くなった女性と比べられる立場に置かれるのは御免だと述べ、フェリックスとの関係を断る。手紙は冷ややかで短い。

作者

登場する文学史