李商隠
- 原綴
- 李商隠
- 生没
- 812頃–858
- 出身
- 懐州河内(現・河南省沁陽)
- 国
- 中国
- 時代
- 唐宋
生涯
812年頃、河南省に生まれた。幼くして父を失い、家は貧しかった。写本の筆耕などをして一家を支えたと伝えられる。
若くして才を認められ、令狐楚という高官に見出された。その庇護のもとで学び、837年に科挙に及第する。
だが仕官の直後、李商隠の運命を左右する事態が起きる。王茂元という別の高官に招かれ、その娘を妻に迎えた。当時の朝廷は、牛僧孺と李徳裕を領袖とする二つの党派が激しく争っていた(牛李の党争)。令狐家は牛党に、王茂元は李党に属していた。恩人の党派を裏切って敵対する党派の婿になった、と見なされたのである。
以後、李商隠はどちらの党派からも信用されなかった。恩人の子である令狐綯が宰相にまで昇っても、李商隠を引き立てなかった。中央の要職に就くことはなく、地方の幕僚として各地を転々とする不遇の生涯を送った。
妻とは深く愛し合ったが、その妻も早くに死んだ。李商隠は各地の任地を巡りながら、失意のうちに生きた。858年、四十六歳ほどで死去した。
作風
李商隠の詩は、意味が容易に定まらない。
とくに「無題」と題された一連の詩がそうである。題を持たないことが、解釈を宙吊りにする。恋愛の詩なのか、政治的な不遇を託したものなのか、あるいは何か別のものなのか。読み手によって解釈が分かれ、千年にわたって定説が生まれていない。
方法は、典故と象徴を濃密に重ねることにある。歴史や神話の断片を、説明なしに並べる。青い海に月が輝き、玉が煙を生む、といった鮮烈だが脈絡の見えにくいイメージが連続する。個々の語は美しいが、全体が何を言っているかは掴みにくい。
代表作「錦瑟」がその典型である。五十弦の瑟(琴に似た楽器)から始まり、荘子が夢に胡蝶となった故事、望帝が杜鵑に化した伝説、鮫人の涙が真珠になる話、藍田の玉が煙を生む景を、次々に連ねる。そして、この情はいつか追憶になるのを待つまでもなく、その時すでに茫然としていた、と結ぶ。何についての詩なのかは、最後まで明かされない。
恋愛詩としての強度は際立っている。「相見時難別亦難」——会うのも難しく別れるのも難しい——で始まる詩は、蚕が死ぬまで糸を吐き、蝋燭が燃え尽きるまで涙(蝋)を流す、という比喩で、尽きることのない思いを歌う。
政治的な不遇が背景にあることは、多くの研究者が認める。どちらの党派にも属せず、生涯を通じて志を得られなかった。その鬱屈が、直接には語れないものとして、象徴の背後に沈んでいると読まれる。
対句の技巧も卓越している。律詩の形式のなかで、音と意味の対応を精緻に組み立てた。
作品
「無題」と題された一連の詩が、最もよく知られている。「相見時難別亦難」「昨夜星辰昨夜風」などがある。
「錦瑟」は代表作である。無題詩に準じる難解さを持つ。
「楽遊原」は、夕日は限りなく美しいが、ただ黄昏が近い、と歌う五言絶句である。「夕陽無限好、只是近黄昏」の句が広く知られる。
「夜雨寄北」は、雨の夜に北の妻(あるいは友)を思い、いつか共にこの夜を語る日を思う詩である。
日本語ではアンソロジーに収められている。難解な詩が多いため、注釈の充実した版に意味が大きい。
文学史における立ち位置と影響
李商隠は、晩唐を代表する詩人とされる。盛唐の李白・杜甫が達した高みの後、唐詩がどこへ向かうかという問いに対する、一つの答えを示した。
意味を確定させない詩という方向で、独自の位置を占める。杜甫が現実を明確に書き、白居易が誰にでも分かる言葉を選んだのに対し、李商隠は反対の方向へ進んだ。難解さと多義性そのものを、詩の価値とする方向である。
北宋初期には、その華麗な文体を模倣する一派(西崑体)が生まれた。ただしこれは技巧の模倣に流れ、李商隠の深さには及ばなかったとされる。
後世の評価は揺れた。難解さを、内容の空疎さの隠れ蓑と見る批判がある一方、その多義性こそが詩の本質だとする評価がある。この対立は、詩が明晰であるべきか否かという、より大きな問いにつながっている。
20世紀以降、その象徴的な方法が再評価された。意味を一つに定めず、イメージの喚起力によって成立する詩は、近代の象徴主義の詩とも比較して論じられる。
日本での受容もある。晩唐の耽美的な詩への関心のなかで読まれ、その難解で華麗な詩風は、一部の詩人に好まれた。ただし李白・杜甫・白居易に比べれば、広く親しまれたとは言いにくい。